ー日露戦争から大正政変へー

歴史は、遡ることによって、あるべき現在と未来とを示唆してくれるものである。

 日露戦争の前段には、日清戦争があったのである。明治27年(1894年)7月25日から明治28年(1895年)4月17日にわたった日本と清国との朝鮮半島をめぐる戦いである。

 この戦争に勝利した日本は、朝鮮を数百年にわたって属国扱いしてきた清国に、朝鮮から手を引かせ、朝鮮を独立国とし、日本はその清に勝ったことで、清国から”アジアの大国”の座を奪ったのである。

 当時の清国は、欧米列強からはアジアで最も力のある国と映っていた。

とりわけ、アヘン戦争以来、清国を脅かしていたイギリス、それに東アジアに北方から圧力をかけていたロシア、そうしてスペインとの戦争に勝利して、フィリピン、グアム、さらにハワイなどの太平洋の島々を植民地にしたアメリカの3国は、強い衝撃を受けたのである。

 当時の日本は、イギリス、アメリカとはおおむね友好的な関係にあったのだが、それは、日本には南下するロシアの勢力を食い止める目的があり、イギリス、アメリカには朝鮮半島、日本列島へのロシアの勢力拡大を好ましく思わないという、利害の一致があったからである。

 日清戦争の日本の勝利をロシアだけは、極めて問題視していたのである。その険悪なムードの中から、日露戦争へと向かっていくのである。

 そうして明治37年(1904年)~明治38年(1905年)日露戦争へと突き進んでゆく。

日露戦争勃発時の第11代内閣総理大臣が、桂太郎であった。第一次桂内閣明治34年(1901年)6月2日~明治39年(1906年)1月7日まで続いた内閣である。

 この桂は、明治41年(1908年)7月14日~明治44年(1911年)8月30日の大臣第13代内閣総理大臣に任命され、第二次桂内閣を組閣。

 そののち、第15代内閣総理大臣として、第三次桂内閣=大正元年(1912年)12月21日~大正2年(1913年)2月20日を組閣するのである。

 この頃である。大正時代の特徴的な社会現象として、民主主義的・自由主義的な風潮が広まり、世相を席巻する。いわゆる大正デモクラシーである。

 こうした中、第三次桂内閣の強硬な議会運営に、陸軍や藩閥の横暴だと受け止めた世間の風潮に呼応して、政党や新聞社が軸となって、数多の一般市民が反対運動を行ったのである。大正デモクラシーの胎動である。

 ところで、当時、桂と入れ違いに組閣を繰り返した西園寺公望は、伊藤博文が結成した立憲政友会総裁であり、一方の桂は、藩閥勢力の代表・山県有朋の後継である。

 こうした関係から、大正という時代を得て、藩閥政治政党政治のせめぎ合いが噴出したのだろう。かくして大正2年(1913年)2月、第一次憲政擁護運動によって第三次桂内閣は総辞職に追い込まれたのである。いわゆる「大正政変」である。明治維新以来のマグマが新しい時代を呼び寄せたのかも知れない。

 

(了)

 

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事件(九州大学生体解剖事件)を題材としている。

この事件の最後の証人・東野利夫さんが2021.4.13逝去された。95歳。生前は事件の資料展などを開くなど、「負」の体験を精力的に語り継いでいた。

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ー日本と台湾の五十年ー

日清戦争終了のあと、下関条約に基づいて、清朝(当時の中国)から「台湾」が日本に割譲された。

 明治28年(1895年)4月17日のことであった。爾来、日本のアジア・太平洋戦争の敗戦によって終焉を向かえる昭和20年(1945年)10月25日までの50年間、台湾は日本の統治下にあったのである。

 この台湾を統治するために台北市に設置されたのが、日本の出先官庁である台湾総督府であった。

 代表的な総督を列ねてみる。

初代 樺山資紀   海軍大将 明治28年(1895年)5月10日~1年1ヶ月

2代      桂 太郎   陸軍中将 明治29年(1896年)6月2日~4ヶ月

3代   乃木希典   陸軍中将 明治29年(1896年)10月14日~1年4ヶ月

4代   児玉源太郎  陸軍中将 明治31年(1898年)2月26日~8年1ヶ月

5代   佐久間左馬太 陸軍大将 明治39年(1906年)4月11日~9年11ヶ月

19代 安藤利吉   陸軍大将 昭和19年(1944年)12月30日~9ヶ月 (最後)

  統治初期の明治28年(1895年)5月~大正4年(1915年)の西来庵事件までを第一期とする区分がある。

 その西来庵事件とはーせいらいあんじけん、大正4年(1915年)日本領台湾で起きた武装蜂起で、台湾本島の人間による最後の抗日武装蜂起であった。首謀者は余清芳。台湾総督府の警察官のあと転変を経て、”五福王爺”を祭神とする「西来庵」に出入りし、布教活動の傍ら、西来庵をアジトに抗日武装蜂起を計画するようになったものである。極めて宗教色の濃い活動で、最中に日本人95人が殺されたのである。

 総督府の初期は、軍事行動を前面にした強硬な統治であったが、それが台湾住民の抵抗運動を招き、そうした中で、武力行使による犠牲者をも生み出しのである。

 内外世論のうねりの中で、台湾をフランスに売却すべしという「台湾売却論」までが出たという。

  かくして第4代児玉源太郎総督が就任。内務省の官僚だった後藤新平を民政長官に抜擢して、硬軟折衷の施策を取るようになる。後藤は台湾の社会風俗などを調査して、その結果に基づいて政策を立案、漸次同化を模索する統治方針を採ったのである。

 対して原敬などは、台湾を内地の一部と見なし内地法を適用して、内地延長主義を提唱したのである。原は、人種・文化が似ている台湾は同化が可能であると考えたようである。

 李登輝などのように、現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたとする意見の一方で、植民地主義を正当化するものだと反発、また、日本の商人によって富を奪われたというような意見もあるようである。

 日清戦争勝利の意味するものは何か?台湾50年は光か影か?

(了)

 

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ー仏領インドシナへの日本軍進駐ー

第二次世界大戦下、日本軍によって、昭和151940年)北部仏印進駐と昭和161941年)の南部仏印進駐が行われた。

 フランス領インドシナへの日本軍の進駐のことである。とりわけ南部仏印進駐によって、日米関係に抜き差しならぬ決裂をもたらし、これによって、太平洋戦争が不可避となったのである。

 昭和151940年)9月、6月フランスがドイツに降伏したことを受けて、大本営政府連絡会議において「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」が決定され、米、英、仏などによる中国援助ルート、いわゆる援蒋ルートの遮断と東南アジア侵略のための前線基地の獲得を目指して開始されたのが、日本軍による「北部仏印進駐」である。

 これに対応してアメリカは926日、屑鉄の対日禁輸に踏み切り、イギリスも援蒋ビルマルートを再開する。

 いよいよもって、日中戦争解決の方途を見失った日本は、さらなる迷走に取り込まれててゆくのである。

 昭和161941年)7、「対英米戦を辞さず」として、ベトナム南部に進駐、いわゆる「南部仏印進駐」を決行したのである。725日、アメリカは在米日本の資産凍結令を公布、8月には対日石油全面禁輸に踏み切り、日米戦争は回避不能となったのである

 主だった資源供給先であったアメリカやイギリスの輸出規制に遭い、日本は新たな資源の供給先を求めなければならなくなったのである。相手にオランダ領東インドを考えたが、昭和161941年)6月、オランダ領東インド政府との交渉は決裂、これらの動きがオランダを英米に接近させる結果となって、南部仏印進駐やむなしとなったのである。

 北部仏印進駐への反発が少なかったとして、南部仏印進駐を、米英の反発を招かないのではと見通しに甘さがあったようである。

 昭和121937年)の日中戦争開始以降、中華民国蒋介石政権には、英米が軍事援助をしていたわけであるが、そのための援蒋ルートのなかで、フランス領インドシナを経由するいわゆる「仏印ルート」は、4つの援蒋ルートの中で最大規模のものである。

 こうしたなか、昭和14年(1939年)11月24日、日本軍が仏印と中国の国境に近い南寧を攻略した。最大規模の援蒋ルートにからむ、この地の戦闘は、中国、英米、オランダ、インドシナ政府などが複雑に絡み合う中で、太平洋戦争開戦への確実な序章となってしまったのである。

 この地ベトナムの中部クアンナム省、トゥボン川の河口に古い港町がある。

中国人街を中心にした古い建築が残っていて、平成11年(1999年)に「ホイアンの町並み」としてユネスコ世界遺産に登録された「ホイアン市」である。

 16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が集結して国際貿易港として栄えた街である。1623年にはオランダ東インド会社の商館がおかれるなどの繁栄を見たが、江戸幕府鎖国によって、日本人の往来が途絶えたところである。

 鎖国までは親しい関係にあったホイアンには、古くから伝わる「カオウラ」と呼ばれる緬があり、うどんのような触感だという。日本人がホイアンの人たちに伝えたといわれているそうである。

 このホイアン中心市街地には、「日本橋」があって、この橋を中心に、かつては日本人街と中国人街が栄えていたのだそうである。現在はホイアンを象徴する観光スポットになっている。

 交流の歴史と悲しみの連鎖と、心の揺れる歴史の跡である。

 このホイアンで「会安(ホイアン)救国会」をつくって活動していた中国系住民が反日を理由に、日本軍によって逮捕・殺害された悲しい記憶が残されている。ホイアン事件」と呼ばれるものである。

 町の郊外にその記念碑と墓があり、この墓に年齢や出身地が記されているという。

(了)

 

 

 

 

 

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ー第二次上海事変、そして支那事変へー

日本軍の北平(北京)攻撃開始が、1937年(昭和12年)7月下旬のことである。

29日には、日本軍が北平を占領、10月12日、北平を北京と改名、12月14日には中華民国臨時政府が誕生する。1945年(昭和20年)8月15日の日本敗戦まで占領は継続する。そして10月10日、故宮太和殿において、日本北支方面軍司令官根本博中将が、降書と軍刀を提示して日本の占領時代が終了する。

 この間、1937年(昭和12年)8月13日からの中華民国軍の「日本租界」への攻撃に端を発する第二次上海事変が起こり、この事変の勃発によって北支事変は支那事変へと拡大、日中全面戦争に発展してゆく。 

 日本租界は、中国(清朝)がアヘン戦争でイギリスに敗北し、1842年(天保13年)の南京条約で開港した上海に置かれた上海租界の一角である。ちなみに租界とは外国人の居留地のことである。

 我が国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇〇つから大伴物部の兵ともを率ゐ・・・ 

一、軍人は忠節を盡すを本分とすべし 

 この軍人勅諭を旨に、戦場においてなお皇居を遥拝する時代でありました。

 ところで「軍隊手帳」をご覧になったことはありますでしょうか。

 私は、家内の叔父の遺品の中から、手に取る機会がありました。表紙をめくると軍人勅諭が朱書、次に氏名、生年月日、出身、軍隊での所属が記載、さらに軍隊での履歴が、ページを進めると、戦死或いは病死の欄に、昭和17年7月8日戦死とありました。叔父は、昭和17年、独立混成第5旅団独立歩兵第20大隊第3中隊要員現役兵として歩兵第60朕隊機関砲中隊に入営大東亜戦争に従軍同年7月8日支那山東省牟平県大龍口付近の戦闘において右胸部穿透性貫通銃創を受傷、戦死したのである。

 住まい近くの神社にある慰霊碑に、名前が刻まれている。神社参拝の際には必ず手を合わせています。

 軍功叙勲の勲章や当時の模様を伝える新聞などと共に、郷土の博物館に寄贈、その魂や永々として生きながらえてほしいものと思っている。

 行年22歳という若さでした。

 

 

 

 

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ービルマのインパール、マリアナのサイパン島ー

昭和19年(1944年)、3月に大東亜戦争ビルマ戦線において、帝国陸軍の「インパール作戦」が開始された。

 インパール駐留の英軍による中国・蒋介石軍を支援するいわゆる”援蒋ルート”遮断を目的として、7月初旬まで続けられた。後年、その無謀な戦いぶりで悪名高い戦いである。移動路に多くの戦死者が横たわり「白骨街道」と呼ばれた悲惨な作戦であった。

 その同じころ、6月には、マリアナ諸島サイパン島に米軍が上陸、マリアナ沖海戦もあって太平洋上に激しい戦いが繰り広げられていたのである。

 日本軍は当初目論んだ太平洋戦争の短期決着に失敗して、すでに多くの戦力を失っていたのだがー

日中戦争大東亜戦争ー太平洋戦争、同時期に、これだけの広がりである。勝利を求めること自体が、奇跡に近く、ただただ、「無謀」と言うしかない。

 

 戯言に、「ジャワは極楽、ビルマは地獄、生きて還れぬニューギニア」というのがあるそうだ。

この違いは、指揮官の哲学による違い、あまりの劣悪な環境など、多分に兵士に対する人命軽視が透けて見える。

ジャワにおいては、かの「今村均大将」の穏やかな軍政が極楽を招来したのであろう。

ー多くの民間人が「バンザイクリフ」に身を投げたー

 

大正3年(1914年)第一次世界大戦の戦果である。ドイツ領であったサイパン島を日本軍が占領したのである。

 

ここでサイパン島の小史を見てみよう。

 大正3年   (1914年) 第一次世界大戦(欧州大戦)で、ドイツ領だったサイパン島など南洋諸島を日本軍が占領

大正9年   (1920年) 国際連盟の委任により日本が南洋諸島を統治

大正11年(1922年)   南洋諸島に「南洋庁」を開設、日本からの入植者数が増大

昭和16年(1941年) 12月8日 真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦

昭和18年(1943年) 9月 「絶対国防圏」設定

昭和19年(1944年) 6月15日 米軍がサイパン島に上陸開始

            7月   7日 サイパン島日本軍最後の組織的抵抗

            7月 9日 米軍がサイパン島占領を宣言

            7月18日 大本営サイパン島玉砕を発表

                  東条英機内閣が総辞職

昭和20年(1945年) 3月10日 東京大空襲

            8月15日 敗戦

  米軍によるサイパン島占領は、日本の敗戦を決定的なものにしたという。

日本本土が、B29の往復飛行圏に入ったということである。こうして米軍はいつでも空襲できる状態になったのである。

本土守備の最終的なライン、これが絶対国防圏である。

 日本のサイパンへの第一陣到着は、わずか一ヶ月前だったという。すでに、島の周囲の空も海も米軍の支配下にあったというのである。輸送船は撃沈、兵士も兵器も海に沈んだという。

「絶対国防圏」陥落のあとの戦闘の継続を、どう解すべきなのだろうか?

 「戦陣訓」=生きて捕虜の辱めを受けず、の教育のまえに降参もできない。

 そうした中、奇跡的に生き残り捕虜となった兵士の述懐があるー”戦争ほど惨めなものはない”と語ったというのである。「捕虜になると戦車で轢かれ・・・」との噂は嘘、何の危険もなかったという。

また、日本兵は死ぬ前に「天皇陛下、万歳」と叫んだというのだが、この兵士の口からは、戦友の最後の言葉は、「おっかさん、万歳」だったというのである。

 大正3年   (1914年) 第一次世界大戦(欧州大戦)で、ドイツ領だったサイパン島など南洋諸島を日本軍が占領

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大正11年(1922年)   南洋諸島に「南洋庁」を開設、日本からの入植者数が増大

昭和16年(1941年) 12月8日 真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦

昭和18年(1943年) 9月 「絶対国防圏」設定

昭和19年(1944年) 6月15日 米軍がサイパン島に上陸開始

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            7月 9日 米軍がサイパン島占領を宣言

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                  東条英機内閣が総辞職

昭和20年(1945年) 3月10日 東京大空襲

            8月15日 敗戦

 

 米軍によるサイパン島占領は、日本の敗戦を決定的なものにしたという。

日本本土が、B29の往復飛行圏に入ったということである。こうして米軍はいつでも空襲できる状態になったのである。

本土守備の最終的なライン、これが絶対国防圏である。

 日本のサイパンへの第一陣到着は、わずか一ヶ月前だったという。すでに、島の周囲の空も海も米軍の支配下にあったというのである。輸送船は撃沈、兵士も兵器も海に沈んだという。

 

「絶対国防圏」陥落のあとの戦闘の継続を、どう解すべきなのだろうか?

 

「戦陣訓」=生きて捕虜の辱めを受けず、の教育のまえに降参もできない。

 そうした中、奇跡的に生き残り捕虜となった兵士の述懐があるー”戦争ほど惨めなものはない”と語ったというのである。「捕虜になると戦車で轢かれ・・・」との噂は嘘、何の危険もなかったという。

また、日本兵は死ぬ前に「天皇陛下、万歳」と叫んだというのだが、この兵士の口からは、戦友の最後の言葉は、「おっかさん、万歳」だったというのである。

 第一次世界大戦のあと日本の委任統治領になったサイパン、サトウキビ産業が栄えて、沖縄出身者を中心に大勢の日本人が移り住んだというサイパンである。太平洋のミクロネシア、日本から2,400キロのサイパンは今次大戦「玉砕」の島である。追い込まれた多くの民間人が自ら命を絶ったバンザイクリフと呼ばれる”崖”があり、現在は観光地になっているという。

 

 第一次大戦の戦果を、当時の国際情勢に鑑み、大切にして欲しかったと思うのである。ましてや、太平洋戦争開戦の重要な原因ともなった日独伊三国同盟締結の当時、すでに凋落傾向にあったといわれるドイツへの傾斜は、あまりにもお粗末である。

第一次世界大戦のあと日本の委任統治領になったサイパン、サトウキビ産業が栄えて、沖縄出身者を中心に大勢の日本人が移り住んだというサイパンである。太平洋のミクロネシア、日本から2,400キロのサイパンは今次大戦「玉砕」の島である。

 

 

 

 

ー満州開拓民の悲哀ー

昭和20年(1945年)ごろの満州国には、およそ155万人の日本人が暮らしていたという。

 おおかたは、鉄道沿線の都市部で行政機関の関係者や商売をしている人達で、近代的な生活をしていたそうである。しかし、その一方では北部の奥地に移り住んだ「開拓民」と呼ばれた人達およそ27万人がいたという。

 農地の圧倒的不足から、その当時の日本国内が貧しい農村を救うには、過剰な人口を国外に送り出すことが必要だと考えられたのである。そうして満州への大量の移民が国策として実施されたのである。

 かれら開拓民にあてがわれた土地は、先住民から強制的に奪われたり、安く買いたたかれた農耕地であったという。

ところで、これら開拓民は3つに分類される。

①日本への反抗勢力を治める(試験移民)武装移民である。4つの開拓団から1785人が送り出され、治安の悪さ、貧しい食事、「屯懇病」などによって、4分の1が退団または病死したという。

②”20年で100万戸500万人”という大規模な農業移民計画を、日本政府が昭和11年(1936年)に決定。数十戸から数百戸がまとまって入植した”一般の開拓民”である。

③そうして満蒙開拓青少年義勇軍である。昭和13年(1938年)に開始された。茨城県内の訓練所を経て満州に渡った16-19歳の男子である。現地での訓練のあと、国防も兼ねた「鍬(くわ)の戦士」として、おおかたソ連国境付近に入植した。

 その彼らに向けて多くの花嫁候補が日本から送り出されて「大陸の花嫁」と呼ばれたのである。

 

 

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ーそもそも「満州」とはー

そもそも満州国があった中国の東北部は、古くから、支配民族の交代が頻繁に行われ、一支配が長期に渡ることがなかったという。

 やがて満州人による清王朝がここに軍政を敷いて、東部を満州人、西部をモンゴル人、南部を漢人の居住区と定めて移住を禁止した。ところがこの状態が19世紀末に弱体化、ロシアがこの地域に鉄道の敷設権を獲得する。この鉄道の完成が、沿線農産物の大量販売をもたらし、南部から多くの漢人流入して人口の大半を占めるようになるのである。

 そうして昭和6年(1931年)の満州事変を経て、翌昭和7年(1932年)3月、満州国建国に至るのである。

爾来、清王朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀満州国のトップに就任。日本の権益を守るために配備された関東軍の独占的な軍事行動によって開かれた国は、昭和20年(1945年)までの13年5ヶ月の短い歴史で幕を閉じたのである。

 19世紀末以降、日本とロシア(のちにソ連)の利害の衝突する一帯であったのである。

 日本にとっては軍事戦略拠点であり、資源の供給地という「日本の生命線」と位置づけられた地域であった。

 

 しかしながらこの国は国際連盟での承認を得るところとはならず、日本はこれを不服として国際連盟を脱退、国際社会で孤立していったのである。