太平洋戦争(大東亜戦争)の構図をみるー

 1940年(昭和15年)の9月日本軍は対米英戦争に大きく踏み出した。

 

蒋介石政権への米英援助ルートの遮断と南方作戦の必要から、23日に仏領インドシナ(現ベトナム)北部へ陸軍武力進駐、27日には近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を締結した。

 そして1941年(昭和16年)8月1日、米政府「対日石油輸出全面禁止」、そうして、12月8日のマレー半島上陸、真珠湾攻撃に端を発し、グァム島ギルバート諸島のマキン島、タラワ島占領、マレー沖海戦と続いてゆくのである。はたして、この大東亜(太平洋)戦争の「戦場」は実に60ヶ所超にのぼる。

 1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件、1931年(昭和6年)満州事変勃発、1932年(昭和7年)満州国建国宣言、1933年(昭和8年)関東軍万里の長城を越えて華北へ侵攻、1937年(昭和12年)盧溝橋事件を経て、ついに日中は全面戦争に突入するのである。こうした大陸での多くの戦火を背景に、太平洋戦争(大東亜戦争)は火を噴くのである。

 

 その戦場たるや60ヵ所超に展開されたのである。日本軍の中国大陸での所業に米英異論、大陸での既得権にしがみつく日本、太平洋上でアメリカの圧力を跳ね返そうと、さながら、太平洋上を嘗め尽くすかのように幾多の「島嶼の戦」は展開されたのである。島嶼の戦いは、早晩食糧が尽きるのである。補給容易ならざるは、それこそ容易に想像できる。げんにおよそ6割の兵士の死は「餓死」であると言われている。加えて「自決と玉砕」である。そうして、動けなくなれば放置されたのである。

 まさしく人命軽視の暴挙である。日本軍は、太平洋上に大切な幾多の人命をばらまいたのである。

 

 

  累々とした屍への「鎮魂」が胸をよぎる。国のためという虚妄にくるまれながら、英霊は祖国を追われたのである。

(了)

 

 

 

 

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