戦史と世相ーシリーズ① 「夢は満蒙開拓へ」昭和4年(1929年)~昭和10年(1935年)

 1931年(昭和6年)関東軍が、南満州鉄道の線路を爆破。この柳条湖事件を端緒に、関東軍は約5ヵ月で、中国東北部満州)全土を占領した。いわゆる「満州事変」である。そうして日本は、満州国建国へ、日中全面戦争へ、国際連盟脱退、日独伊三国同盟締結へと ひた走り、国際社会のなかで孤立していくのである。

  当時の世相は、 1929年(昭和4年)、米国ニューヨーク・ウォール街に端を発した世界恐慌の余波を受け、街には失業者があふれ、他方、夥しい農村部への打撃、これに天候不順による農作物の不作も重なって、いよいよ危機的状況に追い込まれていくのである。はては娘の身売りまでもが横行する始末である。

 こうした背景の中で、対外膨張策への傾斜が余儀なくされ、中国の傀儡国家・満州国が誕生する。これが自存自衛を標榜する日本の大陸進出である。

  満州事変を遡る12年前、1919年、1920年(大正8年、9年)ロシア・ソヴィエト政権のカラハン外相によるいわゆる「カラハン宣言」が出され、帝政ロシアが中国から奪った利権の無償返還、秘密条約の破棄を宣言した。国民党の孫文はソヴィエト政権の援助を受け入れ、1924年(大正13年)1月に第一次国共合作が成立する。ソヴィエト=ロシアとの国交樹立を求める国民の声を受けて、6月には北京政府がソ連を承認して国交が樹立されるのである。いわば、中ソ蜜月の中で、日本は満州事変へとなだれ込んでゆく。

 何事にも原因があって結果があるのである。日本が大陸で築いた利権、そして三国同盟への国際的批判。そうして全滅、玉砕を繰り返しながら、原爆投下という悲惨な経験を呼び込んでゆくのである。

「八月や六日九日十五日」、どなたが詠んだかは知らないが、日本の近代戦史の悲哀をストレートに表現して見せた。無論、六日は広島、九日は長崎、そうして十五日が玉音放送である。

ジャガイモの原産地ってどこだっけ!?じゃがバターとコロッケをこよなく愛する身ながら、これまであまり気にしてこなかった。それだけ、国民食として定着しているからだろう。そうそう、肉じゃがそれにポテトサラダも旨い。さてその原産地なのだが、標高3,000メートルを越える南米のアンデス山脈なのだそう。その高緯度に栄えた古代都市を支えたのがジャガイモだったというわけ。もっともアンデスでは昼夜の寒暖差から、数日たつと凍結でジャガイモの細胞壁が壊れ、日中に天日で溶けたところを足で踏みつけ、ソラニンという毒を抜くらしい。そして乾燥、長期保存という次第。チューニョと呼ばれ、アンデス古代文明を支えたという貴重な食材だったわけである。

 古く大航海の時代に、ヨーロッパをかわきりに世界各地に広まった。ちなみに19世紀の自然主義画家、フランスのミレーが描いた「晩鐘」の画面下の作物はジャガイモだそう。低カロリー、低糖質の優れものだが、揚げ物料理になるとダイエットの敵になるので要注意とのこと。茹でる、蒸すがおススメだそう。

 この辺で、だから何なのの話を一つ。1850年の頃、ジャガイモ飢饉であえいでいたアイルランドを捨ててアメリカに渡ったパトリックという人がいた。なんとそのひ孫にあたる人物がかのJFKジョン・F・ケネディなのだそうである。合衆国で史上初のカトリックアイルランド系の大統領であった。ジャガイモ飢饉がなかったら、ケネディ大統領はあるいは誕生していなかったかもしれない。

 日本へは、オランダの東インド会社が江戸時代の長崎に持ち込んだか。オランダがアジアの貿易拠点としたのがジャワ島のバタビア、日本ではここをジャガタラ(現在のジャカルタ)と呼んだが、そのジャガタライモからジャガイモという名前が生まれたという。グローバルな食材である。世界を一つにする平和の使者であり続けて欲しいものである。