戦史と世相ーシリーズ① 「夢は満蒙開拓へ」昭和4年(1929年)~昭和10年(1935年)

「東洋のモスクワ」はこうして誕生した。中国では「北満の上海」と呼ばれたハルビン(哈爾浜)市は、1896年(明治29年)、帝政ロシアが東清鉄道の敷設権を獲得し、巨費を投じ、東方進出の拠点として建設した大都市である。

  ここハルビンは、北流してアムール川に注ぐ松花江の河畔に位置し、その松花江アムール川最大の支流で、大型船が航行する国際河川であり、往来する旅客汽船で華やかなにぎわいを見せていた。

 ここでわが日本国の満州国にからむ小史を並べてみたい。

● 1898年(明治31年)-ロシア、清朝から遼東半島を租借

● 1900年(明治33年)-ロシア、漁村ダルニーに港湾都市完成

● 1904年(明治37年)-日露戦争のさなか、日本軍ダルニーを占領、大連と改名

● 1928年(昭和3年)-奉天軍閥張作霖爆殺事件

● 1931年(昭和6年)-柳条湖の南満州鉄道爆破事件

● 1932年(昭和7年)-満州国建国宣言、満州開拓移民実施

● 1936年(昭和11年)-20ヵ年100万戸500万人移民計画を立案

● 1938年(昭和13年)-満蒙開拓青少年義勇軍募集

 1904年(明治37年)に始まった日露戦争で、日本は、朝鮮を併合しようとしたロシアを押し返しました。「これで日本は安泰だ」が実現したのです。

 そして1932年(昭和7年)3月1日、満州国の建国宣言へと歴史は流れていきます。

 日本軍は、日・漢・満・蒙・朝の「五族協和」とそれによる「王道楽土」の実現を理想に掲げたのです。しかし、中国には強い抵抗と反発があり、上海で戦火が燃えさかるなかでの建国だったのです。

 4月2日には、軍政部総長の馬占山が新京を脱出、抗日継続を宣言、チチハルハルビンの奪回を目指すなど各地で反満抗日の戦いが続きます。

 そんな中、1934年(昭和9年)には、世界トップレベルのスピードを誇る大陸縦貫特別急行あじあ号」が運航。それまで2日を要した大連、新京間702キロを8時間半で走り、客車は冷房完備でした。

 満州国は、長春を国都と定め、「新京」と改名、大規模な都市計画を進め、原野を開いて近代的な建築物が建てられていきました。

次の歌詞が満州国国歌(その一)です。(日本語訳のみ)

天地の中に新満州あり

満州は即ち新天地である

天を戴き地に立ちて、苦しみも憂いも無い

ここに我が国家を立つ

ただ親愛の心があるのみで、怨みは少しも無い

人民は三千万あり 人民は三千万あり

もし十倍に増えても、自由を得るだろう

仁義を重んじ、礼儀を貴びて

我が身を修養しよう

家庭はすでに整い、国家もすでに治まった

他に何を求めることがあろうか

近くにあっては、世界同化し

遠くにあっては、天地と同流しよう

 

ああ、「十三年の大地」をなんとしょう

日本国内の恐慌対策、満州国の治安・防衛の名のもとに駆り出され

その実、日本人の入植地を確保するための強制的な土地買収、未墾地への強制移住など現地農民の大きな反感を買うものでありました。

「良し悪しを超えた政党の強さの源泉は事務方にアリ」いわく元NHK記者の立岩陽一郎さんである。いかに堅牢そうに見える建造物も”土台”がしっかりしていなければモロイー恐らくそういうことだろう。事実、自民党の事務方には、霞が関官僚機構に適応した政策のエキスパートがいるそうだ。

 ところで現下の小選挙区制であるが、もとより拮抗する2大政党 を求めている。

ならば、いろいろあるけれどやっぱり自民党か、いまの野党じゃな~・・・と、いつまでもこれではいけない。民主党3年半の失政というけれど、経験を積んで熟成するのには、なにせ時間がかかる。されど3年半、彼らも学習はしたのである。

 どうであれ拮抗する2大政党が必要なのである。ならば選挙の結果を漫然と待つのではなく、意図して創ろうじゃないか。

 かかる政治風土、精神文化を国民の間に広め定着させなければななるまい。与党がどうだとか、野党がどうだとか、そんな些末な問題じゃない。必要な二つの政党を創ることだ。そしてもう一つ、個々の政党の中の派閥間の丁々発止、これは絶対必要、そうして政治的腕力を磨いてほしい。

 目先の選挙技術も大事だが、とりわけ野党には、並行してあらゆる普段の時に、哲学の披歴、出版文化による多様な発信など、片時も筆を収めて安閑としている場合じゃない。かつまた、ともかくも街に出よう!

 そうして我が日本は、国際社会において「特別な国」になろうじゃないか。日本民族の品性を代表する天皇の存在を軸に、防備はしっかりと固めつつ、核軍縮地球温暖化など地球規模の課題への積極参加をして、ソフトパワーによる一等国になろうじゃないか。それこそが世界唯一の被爆国たる日本の、原爆投下の下で、無念の死を遂げ、それゆえにいまだ苦しみの中にある多くの人々の悲痛な叫びに、いささかなりともより寄り添う道であると思う。