戦史ブログ「飢餓の戦場」

For The Peace & Free

アクセスカウンター

戦史と世相ーシリーズ① 「夢は満蒙開拓へ」昭和4年(1929年)~昭和10年(1935年)

永田鉄山斬殺事件や天皇機関説問題で、ファッショの高まりが顕著に、これが昭和10年(1935年)であるこれに先立つ1931年(昭和6年)、1934年(昭和9年)の大凶作が農家の生活を圧迫し、昭和恐慌とも重なって、血盟団事件」、五・一五事件を引き起こす原因になっていく。

 そうした気運のなか、満州国皇帝愛新覚羅溥儀が来日している。

さらに、ファッショの芽が沸騰、1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件を端緒に、支那事変(日中戦争)へと事態が悪化してゆく。そうして8月の第二次上海事変の勃発に及んで、戦火は中国全土に拡大、全面戦争の様相を呈してゆく。

 

「そりの鈴さえ 寂しく響く

雪の荒野よ 町の灯よ

ひとつ山越しゃ 他国の星が

凍りつくよな 国境(くにざかい)」

街に、東海林太郎の歌「国境の町」が哀愁を帯びて流れてゆく

 

関東大震災からの復興や恐慌による膨大な負債、

農村や零細企業の疲弊、資源の豊かな海外に活路を求め大陸へ、

 「夢は満蒙開拓」へ。

王道楽土への希望はいつしか”野望”に変わり、日本は泥沼の戦いに突き進んでゆく。

血盟団事件=1932年(昭和7年)に起こった連続テロ事件。茨城県大洗町を拠点に政治活動を行っていた井上日召日蓮宗僧侶=が青年たちを集めて、政財界の大物を狙ったテロによる国家改造計画である。

五・一五事件=1932年(昭和7年)5月15日、海軍の青年将校たちが、首相官邸などを襲い、犬養首相を殺害した事件である。

 「ボクシング」に酔ってはや50年。手元には、かの具志堅用高氏との”ツーショット”を所蔵するほどだから、どの程度のボクシングファンかは、お察しのとおりである。

 我がボクシング愛好の証しである、日本での世界チャンピオン達の記録が、一冊のファイルになって、いつも私の傍らにある。折に触れてはページを開いて一人ニヤニヤと往時を忍んでいる次第。

 1952年(昭和27年)5月19日、世界フライ級チャンピオンの座についた白井義男が日本における初代世界チャンピオンである。このあと彼は4回の防衛を重ねることになる。今とは違って、WBAWBCの2団体しかなく、ただでさえ狭き門、フルラウンドは15回戦(現在は12回戦)という時代の「偉業」であった。

 そして2代目が、ファイティング原田である。1962年(昭和37年)10月10日、白井と同じフライ級の世界チャンピオンになったのである。東京・蔵前国技館でのタイの世界王者ポーン・キングピッチとの一戦。11ラウンドに攻勢をかけてコーナーに追い込むと、ここぞとばかりに打ちまくる原田。史上最年少19歳での世界奪取だった。白井選手がタイトルを失ってから8年ぶり、この間に、米倉健志、矢尾板貞雄、高山一夫、関光徳、野口恭ら5人が挑戦したが、栄光にはとどかなかったのである。こののち原田はバンタム級に転向し、4度の防衛を果たしている。

 原田は後年、第10代日本プロボクシング協会会長へ、さらにプロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問に就任する。

 ところで、日本における世界チャンピオンは、村田諒太がちょうど90人目である。そのあと、伊藤雅雪、そして井上尚哉の弟・井上拓真の92人目までが私の記録である。

 ボクシング通史の中、とりわけて具志堅用高長谷川穂積内山高志が我が最愛のボクサー達である。以前に、内山が引退のあとの新設ボクシングジムを訪問した。あいにく本人不在で会えなかったが、いずれかに必ずお会いしてみたいと思っている。

 ちなみに私が初めて生のボクシング試合に触れたのは、東京後楽園ホールでの東洋ミドル級チャンピオン・カシアス内藤の試合だった。

 ところで私は自称・人権活動家の、はしくれであるが、元プロボクサーで、1966年(昭和41年)静岡県で起きた一家4人の殺害されたいわゆる「袴田事件」の元被告・袴田巌さんを、世界スーパーウエルター級チャンピオンだった輪島功一さんらが中心になって、「FREE HAKAMADA」として応援をしている図式を、実に素晴らしいことだと思っている。

 現在、袴田さんは、お姉さんの秀子さんと一緒に暮らしている。秀子さんには、冤罪事件報告のイベント会場で、私も3度ほどお目にかかったことがあるが、パキパキとした、とてつもなく心の大きな人である。いつまでもお元気でと、ささやかに祈っている。

 ところで、内山は、自身の著作「心は折れない」の中で、大学のボクシング部活動で得た大きな宝を、”挨拶”、”礼儀”、”長幼の序”と書いている。

 内山はもしかしたら、ボクシングをしたのではなく、しばし人間修養に出かけていたのかもしれない。

 ボクシングが橋渡しをした「幾多のドラマ」を、この先も、生ある限り紡ぎ続けたいと思っている。

  厳しいロードワークに耐え、激しくパンチングボールを叩きながら、今日もどこかで、次代の世界チャンピオンが汗を流しているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

\\