戦史ブログ「飢餓の戦場」

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戦史と世相ーシリーズ② 「赤紙の届く日」昭和11年(1936年)~昭和12年(1937年)

 海軍の青年将校たちが犬養首相を殺害、1932年(昭和7年)5月15日であるー

世にいう五・一五事件である。国を変えたい!国民の生活が荒廃を極めた末に、海軍の青年将校と陸軍士官候補生らが中心になってこの事件は起きた。他に、農業主義の団体「愛郷塾」の塾生も参加していた。

そして、1935年(昭和10年)8月12日に相沢事件が起きる。

皇道派青年将校への共感から、相沢三郎陸軍歩兵中佐が、統制派の軍務局長永田鉄山少将を白昼に斬殺したのである。永田事件ともいわれる。

統制派が皇道派を追放しようとしたことへの反発から、翌1936年(昭和11年)2月26日の、二・二六事件へとつながっていく。

 悪しき政治勢力から国権を奪還、軍部の手で天皇親政の政府を実現しようと、「昭和維新」を標榜した青年将校らが部下1500名を率いてクーデターを実行、未遂事件であった。彼らの声が天皇に届くことはなく、首謀者の大半が処刑された。これが二・二六事件である。

おりしも東京は一面の雪景色であった。

 その昭和11年、1月には、江戸川凭歩の「怪人二十面相」が”少年倶楽部”に迎幟、10月頃には結核患者が増加して、36年ぶりに死因第1位の「亡国病」と呼ばれた。アルマイトの弁当箱が、工員や学生に普及した年でもある。

歴史に学ぶとは、史実の列挙にはあらずーファクトの内奥に巣食う深い思念を探ることであり、後代にどのような影響を及ぼしたのかを、しっかりと分析かつ解析し、現代からさらにその先を展望する礎にしなければならないー

  ① 五・一五事件

  ② 相沢事件

  ③ 二・二六事件

三つの事件は、その後の日本の行方に決定的な意味を持つものである。

軍部・軍人の恐怖の行為が、その後の軍部の発言権を増幅し、そのことで、政治に介入してゆくようになる。無謀な武力を背景に、いくつもの戦局を思いのままにしたのである。

かくして、軍部の暴走が戦局悪化を加速、日本は泥沼に落ち込んでゆく。

中国で開かれた戦端が拡大、一般の市民に「赤紙」が届くようになるのである。

勝海舟墓所は、東京都大田区南千束2-14-5洗足池公園の一角にある。東急池上線洗足池下車徒歩10分である。洗足池のさざ波を望みながら、ご夫妻で寄り添うように眠っている。墓所の隣には、海舟が畏敬した西郷南洲の顕彰碑などが建てられている。この地は、海舟が西郷との江戸城無血開城を決めた会談の後、しばしの安らぎを求めて立ち寄り、瞬時に虜になった場所といわれる。日がな家族連れなどが訪れ、ゆったりとした名所である。

墓めぐりの好きな私が、やはりこの人と思う墓所伊藤博文である。歴史上の人物を取り上げるのは容易いのである。どうせ広く知れているわけだから、細かい説明が要らないのである。

こちらは、東京品川区西大井6-10-18JR西大井駅から徒歩3分である。

格別にご立派な墓所であった。門扉はいつでも開放されてでいるわけではなく、訪れたその日も閉所、残念。山口県の県人会が管理しているという。

 一度に多数の著名人の墓に詣でたのは、かの谷中霊園である。折よく説明好きのおじさんに出会い、補足説明をいただきながら、大方の参拝をこなしたのである。

15代将軍徳川慶喜公に始まり、渋沢栄一日立製作所の創業者・小平浪平、植物学者・牧野富太郎鳩山一郎、花村寿輔、長谷川一夫森繁久弥、などなどである。

帰り道は”夕焼けダンダン”を歩いた。大方が定休日ということで、開いていている店が少なかったが、まずまずの満足。

近くには、山岡鉄舟が開いた全生庵があるのは知っていたが、うまい具合に時間が取れなかった。後日必ず行くと心に決めている。

 それにしても散歩の嫌いな私が、いざ名所の訪ね旅となると、なぜか足が軽く2万歩くらいはゆうに歩くのだから面白い。

 はては、若き日心を躍らせた夭折の日活大スター、あの赤木圭一郎、トニーの眠る、日蓮正宗総本山大石寺を訪れ、墓碑に手を合わせてきた。東京駅から高速バスに揺られ、静岡県富士宮市へ、巨大な富士山を望む絶景の墓地である。「トニーやっと来たよ」。