戦史と世相ーシリーズ② 「赤紙の届く日」昭和11年(1936年)~昭和12年(1937年)

「自ら計らわず」とは、広田弘毅の言葉である。斎藤内閣の外相、二・二六事件後に総辞職をした岡田内閣の後を受けて、自ら計らわず、やむなく引き受けた総理の座である。1936年(昭和11年)59歳であった。

 私の広田に対する印象は、誠実な人柄と広い識見を持ち、人望熱き人物像である。外相時代には、「和協外交」をスローガンに掲げ「私の在任中には戦争はない」と語っていた。ソ連から北満鉄道を一億四千万円で譲渡させ、あるいは、中国の公使館を大使館に格上げするなど、一定の成果もあげている。

 一方、1935年(昭和10年)10月4日には、岡田啓介内閣の陸相海相、外相の間で了解され、翌1936年(昭和11年)に第68帝国議会で、対中国政策として以下のような「広田三原則」が発表されている。

① 排日言動の徹底的取り締まり

満州国独立の黙認および満州国華北との経済的文化的な融通提携     

 外モンゴルなどからくる赤化勢力の脅威に対する共同防共

 前年の、1935年(昭和10年)9月7日には、すでに中国政府から日本政府宛て、以下3点の申し入れがなされている。

① 中国独立の尊重

② 統一の破壊や治安攪乱工作の停止

③ 一切の事件の平和的外交手段による解決

広田外相はこれらを好意的に取り上げず、三原則を日中国交調整の条件とし、一方で華北分離工作を進めたのである。

 広田もまた、軍部という実力組織の圧力に屈してのことなのだろうか。

 広田は、二・二六事件後、岡田内閣に代わって組閣、その後は一貫して対中強硬派や陸軍の暴走を抑えきれず、組閣時に陸軍の要求をのんだほか、軍の同意なしには軍部大臣を出せなくなる軍部大臣現役武官制も復活。最後まで軍部の主張に屈し続け、大陸、南方への進出をも黙認するなどして、むしろ戦時体制が推進されたのである。

  1948年(昭和23年)12月23日午前零時過ぎ、東京・巣鴨拘置所の一角で、広田や東条英機ら7人の絞首刑がひっそりと執行された。その後、横浜市西区の久保山火葬場で荼毘にふされ、12月26日夜陰にまぎれた3人の男たちによって、遺灰が巧妙に回収され、三ヶ根山山頂の「三ヶ根山殉国七士廟」に祀られている。愛知県幡豆町三ヶ根山スカイラインである。

 広田は無理な罪状を問われても「自ら計らわず」と語ったそうである。

本人の生きざまはそれとして、計らわずに流れるに負かせたのであろうか。

戦時体制を加速した”歴史的意義”を問うてみたいものである。