戦史と世相―シリーズ② 「赤紙の届く日」昭和11年(1936年)~昭和12年(1937年)
「日露戦争」勃発、ロシアの南下政策に対応ー
明治37年(1904年)~明治38年(1905年)である。
国力消耗著しい日本、そして、国内に革命をかかえるロシア、ともに困難な戦争継続
の前で、米国ローズベルト大統領の斡旋により収束、1905年(明治38年)9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)に署名するのである。
戦費調達→増税→国民生活圧迫→軍備拡張に反対→明治末、国民、政治に関心→軍部横暴に批判→民衆の運動が政治を左右→労働組合、女性の参政権運動→吉野作造民本主義→大正初め民主主義を求める声←【大正デモクラシー】
そうして大正13年(1924年)6月、いわゆる護憲三派の加藤高明内閣が成立。
大正デモクラシーへの配慮から、大正14年(1925年)3月に普通選挙法を成立させたが、その一方では、対する枢密院工作として、「治安維持法」をも同時に成立させたのである。1922年(大正11年)の過激社会運動取締法案(審議未了)や1923年(大正12年)関東大震災時の緊急勅令・治安維持令などを集成して成立させたのである。
1928年(昭和3年)、田中義一内閣で法改正、「国体変革」の罪に対しては死刑をも適用することにしたという。
最初の適用が1925年(大正14年)12月~1926年(大正15年)4月学連(全日本学生社会科学連合会)事件だが、1945年(昭和20年)10月にGHQ指令で廃止されるまで、社会主義運動や労働運動のほか、思想、学問、言論、表現など自由への過酷な弾圧を強いることになる。これによる遮断者は数万人にも及んだといわれている。
Bohemian
後ろから突然「大丈夫ですか?」と。
13年も昔の事らしい。
振り向くと、外国の方ー
「歩くのとても遅いですね。疲れていますか?」、
びっくりして「わかりますか」と聞き返す、
日本語がとてもお上手、
「お国どこですか」「ガーナです」「おう、ガーナ」
「ガーナ、チョコレート」
「そうそう」(笑)
とても気さくな40歳くらいの男性。
あの方は、いまどうしているでしょうか。
最近、勤務先のビルで改修工事、警備員の方と顔見知りに、
「歩くの速いですね!生き生きしていますね」、ですって、
13年前、姉と母を病気で亡くしました。
仕事で悩みをかかえていました。
あの頃、とても疲れていました。
いま、前向きに生きています。
あの時の方、
「ガーナさんの一声にありがとう」
広い世間の片隅で、心温まるお話し、
新聞の拾い読み、
なんか演歌みたいですね。
また、お目にかかりましょう。