戦史と世相ーシリーズ② 「赤紙の届く日」昭和11年(1936年)~昭和12年(1937年)

1931年(昭和6年)9月18日柳条湖事件が発生、

 中華民国国民党政府は、9月19日国際連盟に報告、事実関係の調査を求めたー

いささか時間軸が前後して申し訳ない。同年12月10日、国際連盟理事会において「国際連盟日支紛争調査委員会(リットン調査団)の設置が決議される。

翌1932年(昭和7年)3月、国際連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3ヵ月にわたって日本、満州支那の各地を調査する。10月1日、日本政府に報告書が通達される。

 こうした最中である。1933年(昭和8年)の元旦、満州と中国の国境線にある熱河省・山海関付近で日中両軍が武力衝突するのである。いわゆる熱河作戦である。

 前年10月のリットン調査団の正式報告が発表されて以来、日本外交は混迷の中にある。

 かくして、世相は、経済不況にあえぎ、軍国主義風潮の蔓延するときである。

こののち、日本は国際連盟脱退、国際的孤立への道を突き進むのである。

 中国は対日妥協政策をとって、停戦を求めて、5月31日塘沽(タンクー)協定を結んで、日本の軍事侵略の結果である「満州国」を黙認するに至るのである。

 時は移り、1936年(昭和11年)、この頃、ヨーロッパではソ連共産党を中心にコミンテルン(国際的な共産主義組織)の活動が活発化していたのである。

 日本とドイツは、このヨーロッパでの事態を受けて、日独防共協定によって、協力して対処することになるのである。のちにイタリアが加わって、日独伊三国防共協定へ、これが発展して「日独伊三国同盟」という軍事同盟が誕生するのだが、のこファシズム陣営への参加がやがて、日本史に暗い影を落とすことになるのである。

  翌1937年(昭和12年)7月7日に再び火炎があがる。中華民国北京西南方向の盧溝橋で、日本軍と中国国民革命軍第29軍とが衝突、盧溝橋事件である。日中全面戦争(支那事変)の発端とされる事件である。

 こうして中国で開かれた戦端は拡大し、一般市民に「赤紙」が届くようになってゆく。一片の赤い紙が、兵士と戦場を結ぶのである。

Bohemian

長崎には公文書館がないのだそうだ被爆からの復興事業や追悼行事に関する行政文書さえ廃棄されてきたという。

被爆者の日記など民間に眠る資料を集めて残してほしいと、長崎大客員研究員の四條知恵(しじょうちえ)さんは、被爆地・長崎の戦後の記録保存を訴えている。

 自身広島のご出身で学芸員として、平和記念資料館での勤務歴もおありのよう。2006年にご主人の転勤で長崎へ移られたが、公文書館のある広島に比べて、長崎の資料が少ないと気づいたのだという。

 現在は、被爆者団体で健康調査の原票や日誌の整理をされ、山積みの書類を前に奮闘中、その目録と運動史の証言をまとめて、来春の出版を目指しているそうである。

これは、新聞の拾い読みであるが、来春出版の情報にぜひとも触れたいと思う。

 私の手元に、米占領軍司令官ビクター・デルノアの記録がある。

2011年、デルノアの遺品の中から、彼の第1回平和祈念式典へのメッセージの原稿が見つかった。祖国アメリカの国策を真っ向から否定する言葉がつづられていた。

「あの日のことを忘れないことが長崎のみなさんの使命です。あの日、死んでいった人たちの思いを伝えていくことが生きている私たちの使命なのです。みなさん、亡くなった人たちに決してその死を無駄にしないと約束しようではありませんか。二度と原爆を使ってはいけない」。

 

 花愛し新緑めでて今日までも原爆に負けず生きしいのちよ

『長崎・そのときの被爆少女~65年目の「雅子斃れず」~』私の書棚の宝です。