戦史と世相ーシリーズ② 「赤紙の届く日」昭和11年(1936年)~昭和12年(1937年)

太平洋戦争の終結までの日本では、20歳に達した成人男子は全員徴兵検査を受けることが義務づけられていた。4月~5月に通知が届き、検査に合格した者は1月10日に各連隊に入営する。志願によって17歳から入営することもできた。身長、体重、病気の有無が検査された。甲種合格は、身長152センチ以上、身体頑健の者。

 太平洋戦争末期には、甲種に満たない者が、乙種、丙種ながら、兵員の不足を補うため徴兵された。

 彼らが軍隊に入営した際、必要な書類やこまごました身の回り品を入れていたのが木綿製の「奉公袋」であった。

 さて、召集令状であるが、陸軍省では、動員計画に基づいて連隊区司令部で対象者を指定して発行されたという。令状の本記には応召者氏名、住所、召集部隊名、到着日時などが書かれていた。

 一方、海軍省では、召集を行えるのは志願兵に限られ、定員に満たない場合限られたという。

 そうした兵士たちに向け、戦場での幸運を祈るため、多くの女性たちによって「千人針」と呼ばれる民間信仰が行われた。一枚の布に赤い糸で千人の女性に一人一針ずつ結び目をつくってもらうお守りである。五銭硬貨や十銭硬貨を縫い込み、「五銭」は「死線を(しせん=四銭)」を越え、「十銭」は「苦戦(くせん)=九銭」を越えるという願いも込めたという。兵士はこの千人針を、腹に巻いたり、帽子に縫い付けて、銃弾除けのお守りにしたという。

 また、戦地にある出征兵士を慰め、士気を鼓舞するために、日用品や腹巻などを入れた慰問袋も贈られた。晒し木綿や手ぬぐいで作られ、差出人の住所、氏名が記され、手紙も添えられたという。

 かくして兵士たちは、女性たちの作った「千人針」や「慰問袋」を携えて、戦場へと向かったのである。

Bohemian

<オプティミズムをやめよ。眼をひらけ。日本の人々よ、日本は必ず負ける>

 京都帝大生の林尹夫(ただお)は敗戦直前に、23歳で撃墜死したという。学徒出陣で海軍航空隊員になっていた。日記の一部が「わがいのち月明(げつめい)に燃ゆ」という遺稿集となって発刊されたのが1967年(昭和42年)ことである。日記はノート4冊、半世紀前の遺稿集では、性への率直な思いなどがカットされたという。

 約3年前、日記の存在を知った山本捷馬(しょうま=28)さんが、日記の原本にあたって、今夏、「林尹夫日記 完全版」として編集を担当して出版された。 

 戦時下、日本と自分自身を凝視し続けた青年の姿に心を動かされたといい、原文が忠実に再現されたらしい。

 山本さんは、これまで、シベリア抑留者の手記など、戦争前後の証言を世に問う仕事に携わってきたという。

 遠くなった「戦中」「戦後」を自分たち若い世代に伝えたいという。

 私も早速、注文を入れた。2~3日で届くと思う。楽しみに待つ一方で、いつもながら厳粛な気持ちになってゆく。じっくりと接したいと思っている。