戦史と世相ーシリーズ③ 「銃後の女性たち」昭和13年(1938年)~昭和15年(1940年)

さらなる戦意高揚をめざしたか、軍部は、武漢を利用したメディア戦略を展開する。

文芸春秋社菊池寛に要請して、当時の人気作家や流行作家が集められたという。

陸軍には、林芙美子深田久弥川口松太郎らが、海軍には、菊池寛や古屋信子、佐藤春夫らが集められ、さらに軍歌を多く作詞・作曲した西条八十や古関裕爾らが中国戦地へ出発した。

「戦場将兵の活躍ぶりを遺憾なく国民に伝えること」

皇軍の正義をとうとび、軍規の厳正なること」

が要請されたという。

 さて、日清、日露せんそうの時は、戦場での銃後であったが、満州事変後は、日本国内を銃後と呼ぶようになる。そして戦争が総力戦になったのである。そこで、銃後の女性たちである。

 安田せいが媒酌した井上陸軍中尉が満州出征の際、20歳の若妻千代子が出征前夜、後顧の憂いが無いようにと自害、安田せいはこの葬儀を取り仕切ると、自ら発起人となり、それまで家に閉じこもり、家事・育児のみにあけくれていた女性たちを割烹着のまま街頭に進出させる。こうして昭和7年(1932年)3月18日大阪において「国防婦人会」が発足するのである。

 出征兵士の見送りや慰問活動に活躍「兵隊さんのために」との名分のもとで、家から解放され、同年12月13日には、東京に出向いた安田せいが軍の指導を受けて、全国的組織「大日本国防婦人会」へと発展するのである。

 昭和12年7月7日、日華事変が起きると、それまでの、458万人が、事変後には685万人と、半年で1.5倍の巨大な組織になり、「白い軍団」と呼ばれたという。

女性たちが軍国主義の集団になったのである。

 昭和13年(1938年)4月には、国家総動員法の公布を受けて、総動員体制下で「軍事援護」が女性の役割として位置づけられ、「銃後の務め」「銃後の護り」は女性の役割として位置づけられてゆくのである。

 戦争に役立つ子どもを増産しなければいけない「産めよ増やせよ」というわけである。

 銃後の女性たちは、家庭を守りつつ、子どもを産み、工場でも働くことを求められたのである。

 昭和17年(1942年)5月には、文部省が戦時家庭教育指導要綱が定められ、

・家庭はかしこくも皇室を宗家と仰ぎ奉り、常に国の家として生成発展してゆくことである

・忠孝一本

・母親の役割として次の皇国民の育成

・女性のモラルとして従順であること、温和であること、貞淑であること、忍耐強いこと、全てをお国に報告すること

ーこれらが求められたのである。

 昭和18年(1943年)、政府の出したスローガンには「戦いは人口戦だ」→まず「結婚」とある。

あくる昭和19年8月には、「女子挺身勤労令」が発令される。

 あの戦争は他国が戦場であった。

果たして、銃後の女性たちにはどのように映っていたのだろうか。

 Bohemian

さるベトナム人女性が見た二つの夕日!?

真っ赤に染まった夕焼けを見ると、ふるさとを思い出すという。

名古屋大学職員のベトナム人女性チャン・トゥー・チャンさん(29)だ。故郷ハノイのロンビエン橋の光景だそうだ。

 その夕日の記憶は、家族との晩御飯を急ぐ気持ち、平和な日常そのもだったという。

二つ目の夕日の記憶、広島での夕日の記憶である。

「原爆の赤い空を思い出すから夕焼けなんか見たくない」ーそう話す被爆者がいると聞いたのだという。

「私には驚きでした」と。

ベトナム戦争の傷跡に苦しむ母国の人々の姿が重なったという。

原爆ドームから見る夕焼けは美しかったが、「誰もが平和に楽しめるわけではない」と。