戦史と世相ーシリーズ③ 「銃後の女性たち」昭和13年(1938年)~昭和15年(1940年)

ぜいたくは敵だ

1939年(昭和14年)2月に、国民精神総動員運動を挙国実践運動として強化する方針を打ち出したのが、平沼騏一郎内閣である。精動委員長荒木貞夫文相のもとで、9月から毎月1日を興亜奉公日と定め、国民に、前線の労苦を忍ぶ耐乏生活を押し付けたのである。翌年7月7日には奢侈品製造販売禁止令が出され、8月の興亜奉公日には<ぜいたくは敵だ>の立て看板が街頭に立てられたのである。さらに政治運動を排撃して、万民翼賛の名のもとに官僚中心の体制を維持しようとしたのが平沼騏一郎や内務官僚であった。

 興亜奉公日とは、国民精神総動員運動の一環で、昭和14年(1939年)9月~昭和17年(1942年)1月まで行われた生活運動である。昭和14年(1939年)8月8日に閣議決定され、国旗掲揚や宮城遥拝、神社参拝、勤労奉仕などが行われたのである。食事については一汁一菜、児童生徒の弁当は日の丸弁当とされたのである。飲食・接客業も休業となった。 

 一方、各集落においては「隣組」が結成された。これは日中戦争第二次世界大戦に対応して、昭和15年(1940年)9月11日の内務省訓令による「部落町内会等整備要領」(隣組強化法)によって制度化されたのである。戦時下での住民動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行い、思想統制や住民同士の相互監視の役目も担っていたという。

 他方には、戦地に赴く女性たちの姿があった。

帝国陸海軍に同道した従軍看護婦たちである。

 そもそも日本の従軍看護婦制度が始まったのは明治20年代といわれる。明治23年(1890年)4月に、日本赤十字社看護婦養成所に一期生として10名が入校したという。養成機関3年で、卒業後は20年の応召義務が課せられたという。養成所規則に「20年間は国家有事の日に際せば本社の招集に応じ」とあり、のちに12年に短縮されたが、昭和30年(1955年)1月16日まで存続したという。

 平時には日赤病院に勤務し、戦時召集状が届いた際は、事情の遺憾を問わず戦地に出動するのを原則としたという。

 日清戦争で、はじめて日赤看護婦が陸海軍の病院に招集されて、活躍したという。

 

 昭和13年(1938年)4月1日、ほぼ白紙委任に等しい権限を、政府や軍部に与える国家総動員法(全文50条)が成立する。その第4条はこうである。

「政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは勅令の定むる所に依り帝国臣民を徴用して総動員義務に従事せしむることを得 但し兵役法の適用を妨げず」。