戦史と世相ーシリーズ③ 「銃後の女性たち」昭和13年(1938年)~昭和15年(1940年)

留まることなく戦闘は続いてゆくー。

昭和13年(1938年)12月18日から重慶爆撃が開始される。昭和12年(1937年)の第二次上海事変で、日本軍が首都南京を攻略・占領、蒋介石中国国民党政府はやむなく漢口へ、さらに重慶へと首都を移転した。日本軍は、地上戦によって攻略を計画したものの、重慶が天然の要害の地で攻略困難と判断、戦略爆撃に切り替え、昭和18年(1943年)8月23日にかけて、計218回の爆撃が行われたという。

 こうした最中、昭和14年(1939年)5月から9月にかけて、日本が支配していた満州国と国境を接するモンゴル・ソビエト連邦の間で、日ソ国境紛争が起こった。これは一連の日ソ国境紛争の中で、最大規模の軍事衝突であり、いわゆる「ノモンハン事件」である。

 一方、同年9月1日には、ドイツ、それにドイツの同盟国スロバキアが、そして9月17日には、ソビエト連邦ポーランド領内に侵入、これにポーランドの同盟国、イギリスとフランスが応戦、9月3日にドイツに宣戦布告、かくして、第二次世界大戦が始まるのである。

 その渦中、翌昭和15年(1940年)5月には、ナチス・ドイツによるフランス侵攻が発生、ドイツ軍の電撃戦が最も成功を収めた例と言われている。

 日本は、こうした情勢下で、昭和15年(1940年)9月29日、日独伊三国同盟を締結するのである。ヨーロッパ戦争、日中戦争に参戦していない国からの攻撃に対する相互援助を約したものである。

 第二次戦争下において、日本軍は昭和15年(1940年)には北部仏印=フランス領インドシナへ進駐、翌昭和16年(1941年)には南部仏印へ進駐する。

 とりわけ、南部仏印進駐は日米関係に決定的な決裂もたらしたとされ、太平洋戦争への回帰不能点であるとの評価がある。

 さて国内に目を戻してみる。

昭和15年(1940年)の神武天皇即位紀元皇紀)2600年の祝年にあたって、国が宮崎神宮の拡大整備事業を計画。「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を建てることになったのである。

 宮崎県宮崎市平和台公園に、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が建立された。正面に「八紘一宇」と刻まれ、現在は「平和の塔」と呼ばれ、「八紘一宇の塔」とも呼ばれているという。

 塔の設計者は日名子実三である。

彫刻家の公募に際し、日名子は「報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい」と申しで出て実現した。その情熱と彫刻家としての名声に、当時の知事が呼応したものである。

 こうした中でも、国民が口ずさむ歌はあったようである。

 昭和11年(1936年)~昭和16年(1941年)の間、月曜から土曜の午後0時35分から5分間、国民歌謡が流れたという。日本のラジオ番組である。

 昭和13年(1938年)1月5日の午後7時30分からは、「国民唱歌」という番組が放送され、東京シンフォニック・オーケストラの歌で、「金塊集より」、「子等を思う歌」、「戦勝の春」、「愛国行進曲」の4曲が登場したという。

Bohemian

午前中、久しぶりにゆったりと、とある情報誌のページをめくっていた。

子育てファミリーへと書かれた、ある家族の物語である。

飲み会で帰りの遅い夫、かたや産後の仕事復帰を果たしたばかりの妻、幼子と小さな子そんなシチュエーションである。

遅い帰宅の夫に「いい加減にして」と妻、「俺だって仕事だ」「私も働きながら子育ても・・・」。双方ヒートアップ!!

たまらず夫が手を振り上げた、「ハッ」として、あわてて手を下ろした。

「パパ、ママ、ごめんなさい」。

振り返ると、パジャマ姿の息子が震えながら・・・眼いっぱいに涙をためて立っていた

 

『子どもの前での喧嘩は「面前DV」と言って、心理的虐待になるの。絶対にしちゃダメ』ー天の声!?