戦史と世相ーシリーズ④ 「立ち上がれ小国民」昭和16年(1941年)~昭和18年(1943年)

この時点には、政局が大きく動いた。

事実上の改造内閣である第三次近衛内閣が、発足後3ヶ月で東条英機陸相と決裂、近衛内閣は、後継内閣模索の中、一方的に内閣を放棄したのである。

この事は、米国・ルーズベルト大統領から、中国大陸、仏領インドシナからの日本軍の撤兵、日独伊三国同盟からの脱退を求められ、これに反対する陸軍との板挟みになった末のことであった。

時局収拾に向けて、皇族内閣を望む声もあったが、縷々経過を経て、「強硬論を主張する東条なら、軍部を抑えされる」との内大臣木戸幸一の意見を入れて、東条内閣の誕生に至るのである。東条は、陸軍大臣、内務大臣を兼務し、絶大な権力を一手に握ることとなり、「東条幕府」と揶揄されることになる。

昭和16年(1941年)10月18日~昭和19年(1944年)7月22日、これが東条内閣の任期である。

大東亜戦争という呼称があるが、東条内閣のもとで、日本と、中華民国、イギリスやアメリカ、オランダ、オーストラリアなどの連合国との戦争に、昭和12年(1937年)に勃発した支那事変(日中戦争)を含めて「大東亜戦争」とする旨の閣議決定によるものである。

さて、戦況であるが、昭和16年(1941年)4月~11月の間には、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦直前の日米政府間での国交調整交渉、「日米交渉」がもたれる。

野村吉三郎駐アメリカ大使とコーデル・ハル国務長官との間で進められたが、曲折ののち、昭和16年(1941年)8月1日に、アメリカは日本に対する経済制裁として、石油禁輸措置を講じたのである。11月26日には、いわゆる「ハル・ノート」が東条内閣に手渡され、交渉は決裂。

かくして、昭和16年(1941年)12月8日、ハワイの真珠湾攻撃をもって太平洋戦争は開戦するのである。

日本海軍が、アメリカ合衆国のハワイ・オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、航空機と潜航艇によって攻撃したものである。開戦の初期にアメリカ艦隊に大打撃を与えたのである。

このことは、太平洋戦争開戦時における大日本帝国軍の南方侵攻作戦を側面から援護する目的を達成することになったのである。

南方作戦とは、香港、マニラ、シンガポールの軍事拠点を殲滅して、東亜における米英勢力を一掃、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスそれにマレーなどの資源地帯の確保を目的としたのである。

昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃と同日にイギリス領マレー半島の作戦が実施されたが、マレー作戦は太平洋戦争の中で、すべての作戦に先駆けて攻撃を開始したものである。そして、翌昭和17年(1942年)2月15日、最終目標のシンポール島を攻略したのである。