戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

振武隊は、海軍の特攻隊として先に動き出していた神風特攻隊と歩調を共にするようになっていく。そして沖縄戦開始の昭和20年(1945年)4月1日、第20振武隊を皮切りとして、知覧からの特攻出撃が始まるのである。それ以降、海軍の鹿屋航空基地とともに特攻出撃の最前線となって、陸海軍統合出撃の一翼を担って、アメリカ海軍へ大きな損害を与えてゆく。現在は、つとに有名であるが、歴史博物館として知覧特攻平和会館に、第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻関連の資料が展示されている。

 他方、昭和17年(1942年)1月から、南方作戦の一環として、日本軍は、オーストラリア委任統治領・ニューブリテン島を制圧する。ラバウルの戦いである。時を同じくして、日本海軍航空隊は南太平洋諸島の確保やトラック諸島の防衛、機動部隊の支援などを目的にラバウルに進出、この年末には、日本陸軍航空部隊も進出して、ラバウルは重要拠点となってゆくのである。

第一次世界大戦後、「これからは飛行機の時代」という戦術転換の思想が背景にある。

 ざっと近代戦史を通視してみると、

昭和12年(1937年)以来の中華民国との日中戦争、そして昭和16年(1941年)からの米英などの連合国との間における太平洋戦争(大東亜戦争)と戦禍が拡大。

かくして広大な戦線の維持や次第に悪化する戦局に伴い、戦死者が増加、兵力不足が顕著になってゆくのである。

こうした中、もともとは兵役法の規定で、大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生が26歳まで徴兵を猶予されていたものが、次第に猶予の対象が狭められ、戦場へ送られてゆくようになるのである。

いわゆる学徒出陣・学徒動員である。

まさしく「打ちてし止まん」=敵を打ち砕かずにはおくものか、の世相の中である。

不足は、兵力のみならず武器生産のための金属にも及び、すでに昭和16年(1941年)8月30日に、国家総動員法に基づいて金属回収例令が公布され、官公署、職場、家庭の区別なく根こそぎ回収されたという。昭和18年(1943年)9月には東京で金属非常回収工作隊が結成され、果ては二宮尊徳像までが回収されたという。同年11月には「まだ出し足らぬ家庭鉱」のスローガンのもとで回収がさらに強行されたという。

ところで、昭和18年(1943年)世相を少し拾ってみる。

1月13日、内務省、ジャズなど米英の楽曲約1000曲の演奏およびレコードを禁止

2月3日、 東京の劇場、映画館、交替制で月2回の節電休館を実施

2月    英語の雑誌名を禁止。「サンデー毎日」→「週刊毎日」、「エコノミス    ト」→「経済毎日」、「キング」→「富士」

5月15日、東京丸の内に公衆食堂開業

7月6日、 大政翼賛会、「みたみわれ」を発表、この歌を中心に国民歌唱運動を展開

8月12日、全国のバス、藤鼠色、藍鼠色、国防色の3色のいずれかに塗替え通達

8月20日、陸軍報道部、「愛国いろはがるた」を選定

9月4日、 上野動物園、空襲時の混乱に備えてライオンなどの猛獣を薬殺

9月24日、文部省、すべての学徒体育大会を禁止

10月6日、食糧管理法施行規則を改正、ヤミ米麦の買入者に罰則を新設

10月16日学徒兵壮行のため、戦中最後の早慶戦を安部球場で開催

10月28日商工省、新しい国民食器へ茶わん、湯飲み、各種皿など陶磁器を規格化

11月13日東京都、帝都重要地帯疎開計画を発表

12月13日年末年始の休み廃止を次官会議決定

12月17日競馬開催中止を閣議決定

12月21日都市疎開実施要綱を閣議決定