閑話休題

そもそも「安全なうちに、『安全』を確保しておくのです」とは、自動車教習所で教官から教わった言葉である。周囲の状況が安全を担保しているうちに、最終的な安全を確保しておくことである。

戦時下はどうであったか。

大本営作戦課が絶対国防圏を言い出したのが、昭和18年(1943年)9月だという。千島ーマリアナ諸島ニューギニア西部に一つの線を引いて、絶対にこれを守ると言い出したという。この時、第四航空軍司令官の寺本熊一は、制空権がなければみんな点(孤島)になって線にはならないと発言。

戦後、当時軍令部指導班長だった大井薫は、マリアナ、カロリンの線に後退してみても航空戦力不足では、敵を食い止められない。名前だけもっともらしく「絶対国防圏」とつけても絵に描いた虎の役にもたたないと回想したという。

なぜ、この時期にこういう構想が出てくるのだろう。ましてや絶対などありえない。相手がある以上、あくまでも相対的なものだろう。

あえて言うならば、本土から遠い順に、第一防衛圏、第二防衛圏といった、状況適時に対応できうる柔軟な構想であるべきである、さらに言えば、今頃になって何を考えているのかということである。理想を言えば、開戦当初、せめて昭和17年(1942年)6月5日、ミッドウェー海戦大敗北の時期だろう。この敗北は、太平洋戦争(大東亜戦争)開始、マレー作戦、真珠湾攻撃、昭和16年(1941年)12月8日のわずかに半年後である。

このさらに先に、一方で泥沼化する日中戦争があり、他方で、広大な太平洋上の島嶼に多くの兵士の貴い人命を散らし、この様な無謀かつ無計画な暴走が昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで続いたのである。終末には、生還の期すべくもない、神風特攻隊や人間魚雷「回天」など、非人道極まりない手段に堕しいったのである。

それぞれの意見の対立、意地の張り合い、最終決裁者の不在、戦況の実態を直視しようとしない軍人の哀れ、節度をわきまえない暴走など。戦史の表層には出てきにくい、個々の精神の内奥に巣くう「卑小な迷妄」ではなかったか。

一日でも本土決戦を遅らせるために、硫黄島の戦闘はあったというのだが。

その一日が、原爆投下の一因とは言えないだろうか。

五族協和」「王道楽土」

「兵隊さんは命がけ、私たちは襷がけ」

「守れ職場は我らが陣地」

「撃ちてし止まん」

「欲しがりません、勝つまでは」

そして、

国家総動員」「戦陣訓」である。

これらの言葉の帰結するところは、ただに「悲哀」であった。

美談を一つ。陸軍軍人、根本博中将である。

駐蒙軍司令官として、終戦後も侵攻を止めないソビエト軍の攻撃への、必死の反撃を指揮、蒙古自治政府内に滞在していた在留邦人4万人を救ったのである。そうして、内蒙古を脱出した4万人の日本人が引揚船に乗るまで、食料や衣服の提供などに尽力をしたという。

Bohemian

「ねぇ。

三つの約束、結ばない?

遠慮しない。

比べない。

羨(うらや)まない。」

26歳、コピーライターの女性の言葉だそうである。

人間社会のあらゆる局面に通底する、

素晴らしい言葉だと思う。

添えておきたい格言がある。

格物致知」-物事の本質を理解し、自らの知識を極限まで深めること、とある。