日本戦史の極点「満州国」再見①

昭和4年(1929年)10月、ニューヨーク・ウォ―ル街に端を発した世界大恐慌の影響で、日本経済は不況のどん底にあった。一方、農村部は天候不順による作物の不作で、人口を賄う生産がおぼつかない状況にあった。このような情勢の中で、日本は、対外膨張と軍国主義を選択するようになっていったのである。

このころ、中国の東北地方「満州」は、それまで日本の保持している、満鉄の経営権や関東州の租借権など、いわゆる満州権益が、この地方を治めていた張学良政権によって、圧迫されていた。

一方、日本人には、ここ満州は、明治37年(1904年)~38年(1905年)の日露戦争において、戦死者10万人という犠牲を払って手にしたものという特別な思いがあったのである。

こうした背景を受けて、満鉄警備のために駐屯した関東軍は、張学良政権の放逐そして不況からの脱出を満州占領で実現しようと、昭和6年(1931年)9月に行動を起こした.。満州事変である。

かくして、翌年3月に満州国が建国されるのである。

漢族、満州族朝鮮族モンゴル族など多民族国家であった満州国は、昭和16年(1941年)に総人口約四千三百万人といわれ、日本人はおよそ百万人に過ぎなかったという。

少数の日本人が、満州国の実権を握っていたのである。

最高権力者は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀であったが、行政機関の総務庁の権限は関東軍が握っていたの。総務庁は、人・物・金を集中的に管理する機関で、構成員8割を日本人が占めた。議会のなかったこの国で、「満州国国民」の意向の、国政への反映はなかったという。

満州国前史」について触れてみる。

1894年(明治27年)~1895年 日清戦争で日本が遼東半島を得るが、ロシア、ドイツ

               フランスの干渉で清に返還。  

1904年(明治37年)~1895年 日露戦争の勝利で日本がロシアの持つ旅順・大連の租

               借権、長春~旅順の鉄道経営権を握る。

1906年明治39年)     南満州鉄道株式会社(満鉄)設立。

1912年(明治45年/大正元年)  中華民国成立。清朝が滅亡。

1915年(大正4年)      日本が中国に21ヵ条の要求。旅順・大連の租借期限や

              南満州の鉄道権益の99年延長などを承認させる。

満州国の位置と国土

現在の中国の東北部。国土は今の日本の約3倍。

中国東北部の歴史

古代から実権を握る民族が激しく交代、長く支配し続けたことがなかった。

やがて満州人による王朝・清が軍政を敷いて、東部を満州人、西部をモンゴル人、南部を漢人の居住の区域としたが、19世紀末に、ロシアが鉄道の敷設権を獲得して、鉄道が完成、沿線の農産物が大量に売りさばけるようになる。