日本戦史の極点「ビルマ攻略戦」

 

それまで大本営ビルマ進攻を考えていなかった。ビルマ作戦の詳細は、開戦時においても固まっていなかったという。当初は、マレー作戦への背後からの支援が目的であった。限られた兵力の中で、連合軍への防衛線として、南部ビルマで止めるか、ビルマ全土にまで広げるかは決めかねていたようである。

日本軍は太平洋戦争開始まもなく、ビルマ独立義勇軍の協力を得てイギリス軍を急襲、首都ラングーンを陥落させたのである。蒋介石の援軍を得た連合国軍との激戦を制し、日本軍がビルマ全域を攻略・制圧したのである。

19世紀以来のビルマは、イギリスの植民地であった。

さて、一旦は退却した連合軍であったが、昭和18年(1943年)の年末以降、イギリスは再びのアジア植民地確保、アメリカと中国は再びの援蒋ルートを目指して、本格的に反抗。日本軍は、かの悪名高いインパール作戦に望みをかけたが失敗。昭和20年(1945年)の終戦までに連合軍がビルマを奪回したのである。

日本人の死者は18万人を数えたという。この無残さが戦争なのである。

かくして、イギリスはアジアから撤退、アメリカも撤退して、昭和23年(1948年)ビルマは独立を達成したのである。

ちなみに、ビルマの小史を見てみよう。

独立前ー1044年(平安ー長久5年)  ビルマ人による統一王朝成立

    1886年(明治19年)    イギリス領インドに編入される

    1941年(昭和16年)    日本軍侵攻、ビルマを実質支配下に                   

     1943年(昭和18年)      日本が形式的独立承認、民族主義反日

    1945年(昭和20年)    太平洋戦争終戦、イギリス領に復帰 

     1947年(昭和22年)     アウンサン暗殺

議会制ー 1948年(昭和23年)          ビルマ連邦独立、初代首相ウーヌ

     1949年(昭和24年)    カレン族民族同盟の武装闘争開始

ビルマ社会主義政権

     1962年(昭和37年)    ネウィン国軍大将、クーデターでウーヌ政                                       権打倒、国軍によりビルマ社会主義政権

     1974年(昭和49年)    ネウィン大統領就任

     1978年(昭和53年)    ロヒンギャ難民発生

     1984年(昭和59年)    カレン族タイへの難民流出始まる

     1987年(昭和62年)    国連より後発開発途上国認定

ロヒンギャ問題=その歴史は第二次世界大戦後まで遡るといわれる。

(1948年)ビルマ(現在のミャンマ-)はイギリスから独立。ビルマ西部のラカイン地方から選出された多くのムスリム議員らがロヒンギャ(族)の保護を主張していた。当時のウー・ヌ政権は、ロヒンギャの居住地域を中央政府の直轄地にして、ラカイン教徒から彼らを保護しようと考えていたのだが。

昭和37年(1962年)の軍事クーデター以降、一変。国軍主導のビルマ民族中心主義に基づくビルマ社会主義によって、ロヒンギャへの扱いが急速に差別的になったという。

大きな背景には、昔衝突した因縁、民族、宗教、土地など絡み、一方で、世界大戦時、イギリス軍側として、日本軍側のアラカン人と激しく衝突した経緯、ムスリムであるロヒンギャ仏教徒であるアラカン人との宗教上の違いもあるか。

ビルマTOPIX=

① 第56師団の戦いー福岡・佐賀・長崎出身者で編成。昭和17年(1942年)にビルマ攻略戦へ。中国軍を国境の外へ押しやったあと、国境の守備に。昭和19年(1944年)半ばから米軍の支援を受けた中国軍が反撃。拉孟・騰越で守備隊全滅。

② 陸軍18師団と敦賀第119連隊の戦いー菊兵団。福岡軍久留米市で編成された。中国戦線、シンガポール攻略戦、ビルマ攻略戦を戦ったあと、昭和18年(1943年)秋から、ビルマ北部フーコン谷地(密林)で重装備の連合軍と激戦展開。昭和19年(1944年)6月までに戦死者3,000人、撤退路で多くの餓死者が出たという。

一方、福井県敦賀119連隊は、菊兵団の盾となって、菊兵団生存兵の収容のため最前線へ。連隊兵士3,000人の半数が命を落としたといわれる。

③ 高田第58連隊の戦いー15師団、31師団、33師団が、インパール作戦に参加した。31師団に所属する58連隊は、3,000m級の山越え、弾薬、食糧を積んだ牛を引いての強行軍である。インパールへの連合軍の輸送拠点コヒマへ。いったんは、インパール孤立に成功したかに見えたのだが、31師団の佐藤師団長が補給欠落を理由に独断で撤退決断、牟田口軍司令官の激怒をかい師団長更迭。さらに雨季の密林の中、病と飢えで脱落、将兵の死体であふれた撤退路が、かの「白骨街道」である。

第15師団の戦いー京都府出身者を中心に編成。昭和19年(1944年)3月15日、チンドウィン川を越えて、インパールへ進軍。英印軍は、砲弾、機甲部隊とも豊富であった。15師団は、草を食み、白兵戦を挑む。山内師団長の補給提訴にも、牟田口司令官はここでも解任。撤退路には、ここでも多くの餓死者、病死者が出たのである。

牟田口廉也=死去までのおよそ4年間は、インパール作戦の失敗について、「あれは私のせいではなく、部下の無能さゆえの失敗」と頑なに主張したという。死ぬまで、兵士たちへの謝罪の言葉はなかったという。没77歳。