日本戦史の極点「ガダルカナル島の戦い」

その消耗の激しさにおいて、ミッドウエー海戦に比肩され、日本の戦史に特筆されるソロモン諸島ガダルカナル島の戦役である。太平洋戦争において攻守の大きな転換点となった戦いである。昭和17年(1942年)8月8日夜半の発生が、第一次ソロモン海戦である。

重巡洋艦4隻を撃沈、1隻を大破、戦闘艦艇の撃破には成功したのだが、肝心な輸送艦隊への攻撃攻撃を中止したのである。この中止のせいで、アメリカ軍は大量の物資の陸揚げに成功することになる。

 戦闘は、ただに戦えばよいのではないのだ。敵軍の武器弾薬や食糧を絶つのが第一なのである。よもや戦闘のいろはをご存じないわけではないだろうに。結果は、戦略の展開に重大な影響を蒙ることになってしまったのである。

さらに悪いことに、海軍航空隊が、輸送船団数十隻を撃沈したという誤った戦果報告を信じ、加えて前線からの未確認情報を信じたほか、アメリ海兵隊の戦力約3,000とこれまた誤認した。戦意高揚のために無理に信じ込もうとしたのではないのか。あまりにも杜撰である。

8月23日、24日には東部ソロモン海域において第二次ソロモン海戦が発生。

8月末に上陸した兵士の見たものは・・・およそ兵隊には見えない、痩せ衰えてヨボヨボで杖にすがって、指しだした米を生のままボリボリとかじったという。しかしなが、その10日後には、指しだした兵士が「飯盒と水筒だけで、みすぼらしい格好」で応援の第2師団を迎えたという。

第一次総攻撃。第二次総攻撃そして南太平洋海戦である。

日本海連合艦隊は、総攻撃支援に向けて近藤信竹中将指揮下の第二艦隊それと南雲忠一中将指揮下の第三艦隊を派遣する。 アメリカ太平洋艦隊の空母1隻、同1隻中破との戦果を受けて第38師団約1万名の輸送を決定する。

11月10日には、第38師団長佐野忠義中将率いる先遣隊が上陸、第三次ソロモン海戦である。日本海軍は、戦艦2隻を失い、輸送船11隻のうち6隻が沈没、1隻が中破。

 ミッドウエー海戦とともに、攻守の転換点とされるガダルカナル戦は、

日本軍がアメリカ軍の圧倒的な物量の前に気負わされた戦いである。少なくとも、川口支隊敗北に至る過程で、冷静な判断に基づいて、兵を引くことがあれば、幾多の消耗戦で、泥沼にはまることはなかったかと考える時、昭和戦史における軍人のこの「浅はかさ」を何としよう。それでもなお、我が先祖として「崇める」気にはとてもなれない。

 あなた方が巻き込むのは、いくら譲っても志願兵までであろう。強制徴用された多くの兵士たちを「君たちは国家の非常時に立たぬか」とは責めきれまい。ちなみに我が叔父は志願兵であった。心境はまことに複雑である。二人の叔父はともに志願兵であったのだが、行年22歳と20歳という短い人生であった。

  

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