アジア太平洋戦争の戦跡ー「インドネシア」編

 

おおよそ70余の民族が居住する多民族国家インドネシア共和国が、初めて国としてまとまったのは、17世紀にスタートし、20世紀に入って完成したオランダ領東インドの時代である。

 その領主オランダが、昭和15年(1940年)ナチス・ドイツに占領される。他方、アジアでは日中戦争の激化のなか、英米による対日包囲網が強化され、オランダ植民地政府もその包囲網に加わるのである。

   こうした中、インドネシア独立運動への「皇軍思想への助長」、そして日本の本音とする「東亜の解放」「英米の支配からの解放」のスローガンの下での大東亜共栄圏」構想の実現を目指して、大本営政府連絡会議が「南方占領地行政実施要綱」を策定するのである。

 

 昭和16年(1941年)12月8日午前2時15分日本軍がマレー半島コタバル上陸、真珠湾攻撃の約1時間前のことである。これによって太平洋戦争が始まるのである。翌昭和17年(1942年)1月11日、司令官今村均中将のもとで、日本陸軍第16軍の隷下部隊がタラカン島へ上陸、2月14日にスマトラ島バレンバンに日本軍空挺部隊が降下、油田地帯・製油所を、そして飛行場を制圧して、「南方大油田」を掌握、太平洋戦争の開戦目的を達成したのである。

 

3月1日にジャワ島上陸、3月9~10にはバタビア(現ジャカルタ)を占領、作戦は終了したのである。日本海軍はボルネオの油田を保有日本陸軍スマトラの油田をそれぞれ保有したのである。

 当初、オランダを降伏させて上陸した日本軍はジャワの人々によって大きな歓迎によって向かえられたのだが、占領後のしばらく後には、オランダ同様の「負」の側面もあったようである。厳しい規律の日本式の軍政や皇民化の施行などである。ただし厳しい教育によって人材が育成されたこと、あるいはインドネシア語公用語になsったなどの「正」の側面もまた重要な事実であろう。

 このインドネシアの戦の跡は、ジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡に浮かぶ「サンギアン島」である。ここに築かれた日本軍の防衛施設である。ここは日本占領時代の中で最大規模のものである。トーチカや兵舎など多くの戦跡が残っているという。

 そのサンギアン島はもともと自然保護区であり、平成3年(1991年)には正式に自然観光公園に変更され、美しい海洋観光をもち、素晴らしい水中生態系を有するビーチもある。このような素晴らしいところが痛ましい戦地であったことを、ただただ悲しく思う。

 ちなみに、太平洋戦前の対米石油依存度は、76.7%、つまり76.7%がアメリカからの輸入だったわけである。このような国を相手に開戦に踏み切った暴挙を、何とはかりにかけたのだろうか

 

(了)

 

  

 

  ■お問い合わせはこちらへーyonaosikozo@yahoo.co,jp