アジア太平洋戦争の戦跡ー「パプア・ニューギニア」編

20万名の日本軍将兵のうち、生還者はわずか2万名だったという。この悲惨な戦いが、昭和17年(1942年)3月8日、日本軍が東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸占領して始まった「ニューギニアの戦い」である。

 日本軍に追われてオーストラリアに拠点を置いていたダグラス・マッカーサー大将が、フィリピンを奪回して東京を目指すための”対日反抗ルート”の拠点として、ニューギニア南東部のポートモレスビーは絶対に守らなければならない最後の防衛線であった

 昭和17年(1942年)8月に、この要衝の攻略のため、日本軍はソロモン海岸からオーエン・スタンレー山脈を越えて陸路ポートモレスビーを目指したのである。日本軍が前進拠点としていたラバウルは、ニューギニアの中心拠点ポートモレスビーは爆撃圏内にあったのである。

 将兵の進攻を単純に事実の連鎖で書き上げるのは容易だが、そもそも、昭和17年(1942年)当時のニューギニアはほぼ全島に渡って、熱帯雨林と湿地帯で、1平方キロあたり2人以下という人口密度の未開の地であったという。背骨を成す山並みは4千メートルから5千メートル級の高山が連なって、熱帯だというのに万年雪を頂いているという。おのずから将兵の労苦いかばかりかと忍ばれるのである。

 

   過酷な環境のなかでの戦いであった。日本兵の死亡原因の多くは、マラリアアメーバ赤痢、腸チフスなどの感染症、そして飢餓による栄養失調と餓死であったという。幾多の兵士たちが戦闘によらず、劣悪な環境の中に埋没していったのである。

 それは日本軍にとっても、ラバウルの防衛と米豪遮断のために、ポートモレスビーは譲れない要衝であったのである。

 かくして、この戦いは昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで続いたのであるが、

 数を頼みの勇猛だけで、戦を制することなどありうるだろうか。はたして、作戦計画者の脳裏に一瞬でも”戦場”の現実はよぎっただろうか。

 そもそもこの地は、オーストラリアの支配領域であったが、日本が多くを占領し、それ故にまた、激戦の舞台となったのである。

 ここには、山本五十六連合艦隊司令長官ソロモン諸島ブーゲンビル島で撃墜される数日前に宿泊した「海軍司令部跡地下壕」(ヤマモト・バンカー)がある。火山の噴火で灰に埋もれ、作戦地図が壁に描かれた部屋だけが残っているとのことである。

 私事だが、今年は、今次大戦で戦死した妻の叔父2人の遺品に触れる機会があり、その魂よ永遠にとの願いを込め、地元の郷土博物館に遺品を寄贈、機関紙にも取り上げていただいた。折々に開示され、戦争とは何かを問う一助にと願うばかりである。

(了)

 

  

 

 

 

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