アジア太平洋の戦跡ー「ソロモン諸島」編

 

ソロモン諸島の戦いは、二つの意味で重要な意義を持っている。

アメリカ軍が反転攻勢を 強めることになったこと。

② 日本軍にとって劣勢への大きなターニングポイントになったこと。

この戦いに先立つミッドウエー海戦において、日本軍は主力空母4隻を失い、搭載機のほとんどを失う大きな打撃を受けたのである。

昭和17年(1942年)6月のことである。

 アメリカ軍に日本海軍の暗号は解読され、作戦は筒抜け、日本軍を待ち伏せていたのだという。彼我の差をどう解すべきなのだろうか。

 ともかく、日本軍は航空機の重要性をあらためて認識し、ソロモン諸島ガダルカナル島に飛行場の建設を計画するのである。無論、背景にはミッドウエー海戦で空母を失ったことがある。

 かくして、昭和17年(1942年)7月6日、日本軍の飛行場設営隊がガダルカナル島に上陸、建設が始まり8月5日には第一期工事を完成し、16日には戦闘機を派遣する予定であったという。

 対して、連合軍は7月2日対日反抗作戦を始動、8月7日にガダルカナル島で日本軍が建設中の飛行場の奪取、そしてフロリダ島(ガダルカナル島のすぐ北)のツラギにある日本軍基地攻略のため、、アメリカ軍がこれら二つの島に上陸してくるのである。

 日本軍にとっては、米豪ライン遮断のために、アメリカ軍にとっては米豪ライン確保のためであり互いに譲れない拠点であった。

 

 こうしてガダルカナル島を中心に、ソロモン海域においてー戦いは繰り広げられた。

昭和17年(1942年)8月9日第一次ソロモン海戦

同8月18日、日本軍一木支隊、ガダルカナル島タイポ岬上陸、

同8月21日、ガ島飛行場奪回攻撃に失敗、一木支隊全滅、

 同8月24日、第二次ソロモン海戦

同8月31日、川口支隊ガ島上陸、

同9月12日、川口支隊、ガ島の米軍に総攻撃

同10月13日、戦艦「金剛」「榛名」、ガ島ルンガ飛行場を砲撃、

同10月24日、ガ島の米軍へ総攻撃開始、

同11月12日、第三次ソロモン海戦

同11月15日、第38師団、ガ島に上陸、

同11月30日、ルンガ沖海戦、

昭和18年(1943年)1月29日、レンネル島沖海戦、

昭和18年(1943年)2月2日、ガ島から撤退開始、

同2月8日、ガ島から撤退完了。

 日本軍の死傷者24,000名、アメリカ軍の死傷者6,000名であるという。

 

 ガダルカナル島を失った後、日本軍が太平洋戦争開始来次々に占領した太平洋の島々は、連合軍の反撃によって奪い返されていくのである。

 その後の帰趨はこの時に決していたと思うのだが。

 数次にわたる海戦と上陸戦が繰り広げられたソロモン諸島、そしてガダルカナル島は、文字通り日米の激戦地であった。いまなお砲台や戦車、戦闘機の残骸などが見られるという。ガ島の北の海岸には座礁した日本の輸送船の船体の一部が海面から顔を出しているという。

(了)

 

ohemian

「安全な状態のうちに安全を確保しておく」

これが危機管理の要諦である。つまりは、普段の備えである。

果たして、ポストコロナの日本はどうだろうか?

コロナの早い段階から、私は医療環境の絶対確保について危惧していたのだが。

なぜなら、そこには通常の通院者や入院者がたくさんいるわけだから。

平時と非常時の混在にどう対処するのだろうかという危惧であった。

ややもすると、経済再生とデジタル化ばかりに目がいきがちだが。

経済再生もデジタル化も、行動の主体はあくまでも「人間」であり、政策の効果もマイナスももまた人間に帰ってくるのだから。

ともあれ、現下のコロナ対策は無論急務だが、どうぞ半年先、一年先を見据えて”大きな構え”をゆめゆめ忘れないでいただきたい。

(了)

 

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