アジア太平洋の戦跡ー「マリアナ諸島」「パラオ諸島」編

昭和17年(1942年)8月、連合軍の進攻は、南太平洋・ガダルカナル島への上陸で反攻を開始、日本軍構築の飛行場を奪い取るのである。

昭和19年(1944年)2月には、連合軍はマーシャル諸島を攻略。

ついで、いよいよマリアナ諸島パラオ諸島へ歩を進めてくるのである。ここは、昭和18年(1943年)9月、日本が、太平洋方面の戦線の後退に対応して、「絶対国防圏」とした要衝がマリアナ諸島パラオ諸島である。

ここは、米軍にとって、戦略爆撃機B-29の配備で日本本土の大半が襲撃可能になる重要な意味を持つのである。

加えて、米軍にはフィリピン奪還に向けた支援基地としても重要な位置にあるのである。かのマッカーサー元帥の”I Shall  Return  ”悲願のフィリピンである。

 ここマリアナパラオは、第一次大戦後のパリ講和会議において、大正8年(1919年)5月7日、それまでに日本が占領していたマリアナ・マーシャル・カロリンなどの諸島の委任統治国が日本に決定していのである。

 第一次世界大戦において、日本は、日英同盟にもとづいて、対独宣戦布告、大正3年(1914年)10月14日、赤道以北の独領の南洋群島ミクロネシア)を占領、海軍によって軍政を敷いていたのである。

 

 連合軍は、

昭和18年(1943年)11月25日、ギルバート諸島(マキン、タラワ)

昭和19年(1944年)2月23日、マーシャル諸島(エニウェトク島、クェゼリン島)

へ進攻、日本軍は追い詰められていった。

そうして、連合軍は日本にとっての絶対国防圏マリアナ諸島に迫ってくるのである。

 ここで日本軍は、マリアナ諸島サイパン島に向けて陸軍兵2万8千人、海軍陸戦隊・兵站部隊1万5千人を送り込むのである。

昭和19年(1944年)6月11日、1,000機以上の海軍艦載機がサイパンを襲撃。日本軍の基地の航空機は全壊されてしまうのである。

同6月15日、米軍サイパン島へ上陸。

同7月9日、米軍がサイパン島占領を宣言。

ここに、一つの物語がある。

昭和19年(1944年)2月、歩兵第18連隊中隊長としてサイパンに転出した

大場栄(おおばさかえ)の物語である。

サイパン島の戦闘激化のさなか、大場は同9月30日、戦死と認定されてしまうのである。しかし大場は生きていたのである。150人の兵士と、200人の民間人と共に潜伏していたのである。食料と武器弾薬を洞窟に隠し持っていた大場たちの思いは、徹底抗戦。ゲリラ戦を展開したのである。

 

大場たちはアメリカ軍の掃討作戦も、攻撃をかわしながら抵抗を続け、この巧みなゲリラ戦が、アメリカ軍から「フォックス」と呼ばれたのである。

昭和20年(1945年)8月15日、ついに、日本は降伏。これを知らない大場たちは戦い続けたが、12月1日、上官だった天羽馬八少将からの降伏命令によって、ようやくアメリカ軍に投降したのである。投降の際、日章旗を掲げ軍歌「歩兵の本領」を歌いながら堂々と行進したという。

 この姿がアメリカ軍を感動させ、元アメリ海兵隊員のドン・ジョーンズ氏の手によって後年「OBA THE LAST  SAMURAI」という小説になるのである。

その翻訳版であるトム・ジョーンズ著・中村定訳の「タッポーチョ太平洋の奇跡」は私の蔵書でもある。日本で映画化された際には、無論鑑賞した。トム・ジョーンズ氏いわく「敵ながら天晴」ということである。※タッポーチョ=サイパン島の中央部にある山

以下は、マリアナパラオ小史である。

昭和19年(1944年)

2月23日、アメリカ軍マリアナ諸島を空襲

3月~5月、日本軍、松輸送(満州などから援軍をサイパンに輸送)が成功

3月30日~31日、アメリカ軍がパラオを空襲

5月~6月、第3503船団、第3530船団、第3606船団が壊滅

6月15日、アメリカ軍がサイパンに上陸

 

6月19日~20日マリアナ沖海戦

7月21日、アメリカ軍グアム島に上陸

7月24日、アメリカ軍がテニアン島に上陸

9月15日、アメリカ軍がペリリュー島と、モロタイ島に上陸

9月17日、アメリカ軍がアンガウル島に上陸

 

もっとも象徴的な戦跡であろうか。

サイパン島の最北端にある岬「バンザイ・クリフ」(正式名称:プンタン・サバネタ)である。太平洋戦争末期に多くの人が亡くなられた場所であり、多くの慰霊碑が建てられているという。

現在は平和記念公園として整備され、見事な景色を望む人気のスポットということである。

 

 ■お問い合わせはこちらへーyonaosikozo@yahoo.co,jp