ー満州開拓民の悲哀ー
昭和20年(1945年)ごろの満州国には、およそ155万人の日本人が暮らしていたという。
おおかたは、鉄道沿線の都市部で行政機関の関係者や商売をしている人達で、近代的な生活をしていたそうである。しかし、その一方では北部の奥地に移り住んだ「開拓民」と呼ばれた人達およそ27万人がいたという。
農地の圧倒的不足から、その当時の日本国内が貧しい農村を救うには、過剰な人口を国外に送り出すことが必要だと考えられたのである。そうして満州への大量の移民が国策として実施されたのである。
かれら開拓民にあてがわれた土地は、先住民から強制的に奪われたり、安く買いたたかれた農耕地であったという。
ところで、これら開拓民は3つに分類される。
①日本への反抗勢力を治める(試験移民)武装移民である。4つの開拓団から1785人が送り出され、治安の悪さ、貧しい食事、「屯懇病」などによって、4分の1が退団または病死したという。
②”20年で100万戸500万人”という大規模な農業移民計画を、日本政府が昭和11年(1936年)に決定。数十戸から数百戸がまとまって入植した”一般の開拓民”である。
③そうして満蒙開拓青少年義勇軍である。昭和13年(1938年)に開始された。茨城県内の訓練所を経て満州に渡った16-19歳の男子である。現地での訓練のあと、国防も兼ねた「鍬(くわ)の戦士」として、おおかたソ連国境付近に入植した。
その彼らに向けて多くの花嫁候補が日本から送り出されて「大陸の花嫁」と呼ばれたのである。
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