ー二大「戦跡」に見る太平洋戦争ー
伊江島は東洋一と言われた飛行場が建設されたため、米軍の主要な攻撃目標とされたのである。
沖縄伊江島である。昭和20年(1945年)4月16日、米軍が上陸、すぐさま飛行場は占領されたのである。この伊江島の戦い(~21日)では、一般住民およそ1,500人を含むおよそ3,500人が犠牲になったと言われている。多くの住民が、「斬り込み隊」など組織だった戦闘にかり出されたほか、「集団自決」に追い込まれた人達もいたのである。
米軍の攻撃を受けて、伊江村(いえそん)の建物はことごとく焼き払われたのだが、惨状の中、かろうじて原形をとどめたのが「伊江村公益質屋(跡)」である。
この施設は、昭和4年(1929年)政府の融資を受けて設立された村営の金融機関である。この時期は世界大恐慌のさなかで、村の財政や村民の生活が苦しかった時代である。貧民救済の福祉施設であった。
鉄筋コンクリート2階建てで、当時のものとしては頑丈な造りであったようであるが、戦前のコンクリート建造物として注目されているのである。
凄まじい米軍の攻撃を今に伝える無数の弾痕や砲弾の跡が、生々しく残されているという。〒905-0501 沖縄県国頭郡伊江村字東江上である。
この伊江島の戦いでは、伊江島地区隊、第二歩兵隊第一大隊、独立連射砲一個中隊、
独立機関銃一個中隊、第50飛行場大隊、第502特設警備工兵隊、独立整備隊、野砲小隊、そして地元の伊江島防衛隊、伊江島青年義勇隊、伊江島女子救護班、婦人救護隊が戦闘に参加した。
尊い命が犠牲になったのである。
第二次世界大戦の沖縄戦で犠牲となった守備隊将兵およそ2,000人、そして住民およそ1,500人、合計3,500人が芳魂之塔(ほうこんのとう)に合祀されている。
追記悲報:「伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故」
昭和23年(1948年)8月6日、午後5時過ぎの伊江島の波止場である。
米軍の弾薬輸送船が接岸していたのだが、沖縄戦当時の未使用弾や不発弾の積み込み中、荷崩れが原因で大爆発事故が起ったのである。
当時の沖縄はアメリカの軍政府統治下で、伊江島では”不発弾処理”が行われていたのである。折悪しく、地元の連絡船が入港していて多くの人が出迎えに来ていたのが災を広げた。死者107人、負傷者70人の悲報である。
米軍統治下の沖縄で最大の犠牲者を出す事故となったのである。