戦史ブログ「飢餓の戦場」

戦史の底流から何を学び取るべきかー

戦争事始ーなぜ、それは「満州」なのかー

そもそも、満州とはどんな所なのか?”万里の長城”の北側に位置し、西にモンゴル(蒙古)、北はロシア(旧ソ連)、東を朝鮮半島と接している

 ここには、日本の3倍以上という広大な領土が広がっていた。

 ところで、日本軍の満州侵攻には、無論、地政学的な要素が大きく関係しているが、他方で、当時の日本の窮状満州侵攻を決定づけたと言えるのである。

 日清戦争日露戦争で日本が勢力下にした朝鮮半島に近く、日本陸軍の仮想敵国であるソ連と国境を接している重要な地域がこの満州なのである。

 当然のことながら、朝鮮半島、そして日本本土をソ連の攻勢から守るための最前線ということになるのである。ソ連にはもともと、不凍港を求めて南下する悲願もあったのである。

 日本にとっても、ロシアから譲り受けた南満州鉄道(満鉄)を軸に、満州新興産が生まれていたこと、広大な土地で想起される開拓の余地、石炭などの豊富な資源供給地という期待もあったろう。

 さて、この頃の日本の国内事情である。1920年(大正9年)年代から30年代初頭の日本である。

 1923年(大正12年)の関東大震災、1927年(昭和2年)の金融恐慌、そうして1929年(昭和4年)の世界大恐慌である。とりわけ、凶作の続いた農村の疲弊は相当にひどいものであったようである。

 かくして、働くに職なく、多くの日本人が移民として海外へ散っていったのである。

ところが、こうした中で、多くの移民を受け入れていたアメリカが1924年(大正13年)に受け入れを厳しく制限することになったのである。

 一方、1927年(昭和2年)には、震災手形の償還期限が迫ってくる。押し寄せる窮状への出口を求めて、対ソ連という軍事的事情も絡み、いきおい、1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件、1931年(昭和6年)満州事変、1932年(昭和7年)満州国建国へと突き進むのである。

 これら関東軍の暴挙を軍中央は、ひたすら追認したのである。

 この年、1932年(昭和7年)には、国内において、血盟団事件五・一五事件が起き、これらのきな臭い事件は、その後、1935年(昭和10年)軍務局長・永田鉄山が暗殺された相澤事件が、そして、翌1936年(昭和11年)にはかの二・二六事件が起き、あたかも満州での関東軍の暴挙を後押しでもするかのように、軍人らによる暴動が起きたのである。

 これらの恐怖を背景に、軍人による国家統制がしっかりと足固めされたのである。

 そうして、1933年(昭和8年)5月、「タンクー休戦協定」によって、満州事変は終結する。

 満州事変から満州国建国へ、成功を収めた日本軍部は、ならばさらにと、中国南部への勢力圏を広げていったのである。

 その後の日本国は、国際連盟脱退、日独伊同盟同盟締結などで、国際的に孤立の道をひた走り、開戦半年後には帰趨の決していた太平洋戦争という奈落へ落ちるのである。

 なぜ立ち止まれなかったのか。武功をかけて意地を張り合う軍人の愚かな性癖が、着地の地点を模索する意思を潔しとしなかったのか。

 ならば、国民総動員など悲哀の拡大は、許されないのではなかったか。

それでもと敢えてというのならば、すべての時点で、確固たる「大義」が 用意されなければならない。