マレー半島コタバル上陸、太平洋戦争開始ー(1) マレー半島作戦

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  昭和16年(1941年)12月8日、このイギリス領マレー方面の作戦が、いわゆる太戦争戦争において、すべての作戦に先駆けて行われた南方作戦の一つであり、事実上この攻撃開始によって、太平洋戦争が始まるのである。>8日午前2時30分第18師団侘美支隊(たくみしたい)がコタバルへの上陸を開始して火ぶたは切られ、太平洋戦争の第一歩はまさにこの地から始まったのである。
この難攻とされたコタバルの上陸には、奇襲が必要との認識から、侘美支隊と分かれた、マレー作戦全体の指揮官・第25軍司令官山下奉文中将率いる「本隊」は、コタバル上陸への”陽動作戦”として、12月8日午前5時20分タイ領のシンゴラに上陸したのである。
 香港、シンガポール、マニラの重要な軍事拠点を壊滅させ、東アジアにおける英米勢力を一掃して、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスそしてマレーなどの重要な資源地帯を確保すること、これが南方作戦の目的なのである。そのために、日本陸軍は、先制急襲を方針とするべく英領シンガポールの早期攻略を構想していたのである。
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 マレー作戦は、南方作戦陸海軍中央協定において「・・・その要地とりわけシンガポールを攻略し、東アジアにおけるイギリスの拠点を覆滅(滅ぼすこと)するにあり」と定められたのである。
 第一期は、「第二十五軍は海軍と協同し速やかに"シンガポール”を攻略・・・」、第二期は「・・・シンガポール、ペナン等マレー方面の要地を確保・・・」、第三期は、「・・・英領マレー、英領ボルネオおよび北部スマトラの要域を安定確保・・・」としている。
 そのコタバル上陸開始の1時間後、ハワイ・オアフ島アメリカ太平洋艦隊基地へ奇襲攻撃、いわゆる「真珠湾攻撃」が開始されたのである。ハワイ攻撃の航空部隊が、夜間の艦上発進から黎明の発進に変更、そのために、マレー作戦の上陸が先行することになったのである。ちなみにハワイの明け方はマレーの夜半に当たるのである。
 かくして・・・
①第一次マレー上陸作戦ー昭和16年(1941年)12月8日、午前1時35分、第一回上陸部隊およそ1,300名、コタバルへ発進。
マレー沖海戦ー9日午後2時30分、マレー部隊司令部が、英戦艦のセレター軍港在泊の陸偵報告を。受信。
③第二次マレー上陸作戦ー12日午後7時、カムラン湾から、輸送船「智利丸」「錦隆シンゴ等へシンゴラへ先行・・・、13日午後12時20分「鳥海」「鬼怒」出撃、16日午前4時45分コタバル、午前10時シンゴラ、午前11タニタニ、午後11時ナコン、17日午前6時バンドンへ、それぞれの泊地で上陸を開始したのである。
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クワンタン攻略を予定、昭和17年(1942年)1月12日エンドウ、シンシン空襲開始、12月25日下命されたクアラルンプール攻略、ジョホール・バル攻略へと展開していくのである。
 そうして、1月31日シンガポール攻撃準備が下令されたのである。2月4日朝、軍砲兵隊の攻撃準備射撃で、ついにシンガポール島に対する攻撃が開始されたのである。
 陸軍の司令官は、第25軍司令官「マレーの虎」と称された山下奉文中将かの人である。
 海軍は、南遣艦隊ー司令官・小沢治三郎海軍中将、第22航空艦隊ー司令官・松永貞市少将である。
・・・2月15日午後10時停戦、シンガポール攻略作戦が終了したのである。
 我々は、戦史を後世に語り継ぐべき世代の一員として、太平洋戦争の戦場で何があったのか、そもそもこの戦争にはどのような意味があったのか、もう一度、お互いに再学習しようではありませんか。




ついに「必釣宣言」
(M)

▼スカット、行こうぜ!!

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