太平洋戦争の勃発と同時に、フィリピンの米軍と戦闘開始(4)フィリピンの戦い

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 昭和16年(1941年)12月7日、午後9時35分、日本軍第一天候偵察隊が、そして午後11時30分、第二天候偵察隊がフィリピン上空を飛んだ。
 翌昭和16年(1941年)12月8日0時15分、偵察を察知した米軍は、イバ、クラークに全機15分の待機を命じ、その後、日本の偵察機撃墜のため、戦闘機を発進させたのである。
 米領フィリピン上空での航空戦の開始である。
 ここフィリピンは、スペインの植民地だったものを、米西戦争によって明治32年(1899年)以降、アメリカの植民地になっていたのである。
 ときあたかも、日中戦争の最中である。当時日本の植民地だった”台湾”にも近く、連合国軍の中国支援を遮断する意味からも、日本軍にとっての要衝の地だったのである。
 かくして、12月8日にルソン島北方の離島・バタン島へ上陸、10日には、ルソン島北端のアパリ、ビガンへ、12日にはルソン島南端のレガスピーに上陸、20日にはダバオに上陸。現地の飛行場を抑えて、航空部隊を前進させたのである。
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 そうして、弟14軍(陸軍・司令官本間雅晴中将)の弟48師団(師団長・土橋勇逸中将)と弟16師団上島支隊、左側支隊が、22日にリンガエン湾に上陸、弟16師団主力は24日にラモン湾に上陸したのである。
 日本軍優勢の背景には、マニラ湾には大艦隊を支援できる能力がないこと、米軍にとっての海軍基地は、8,000㌔も離れた真珠湾と言うことになる。一方で、日本の基地はフィリピンから2,400㌔の位置、このような事情が大きく作用したのではないだろうか。
 あえなく、米比軍はマニラをあきらめバターン半島への撤退を余儀なくされたのである。
 翌昭和17年(1942年)1月1日にンンガエン湾に到着していた弟65旅団がバターン半島入り口のナチブ山周辺の米比軍防衛線に攻撃を開始したが、二重、三重に巡らされたその堅固さに翻弄され、日本軍に死者が続出したのである。
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 バターン半島の戦線は膠着。米軍主力艦隊の真珠湾での痛手、一方、日本軍は満州でのソ連軍との対峙、くわえて、中国大陸から東南アジアに至る広大な地域での作戦が展開中、攻略を急がなければならなかったのである。
 かくして舞台は、米軍の要塞・コレヒドール島へ移るのである。バターン半島沖合のこの島は、スペイン統治時代からマニラ湾の入り口を守る要塞として整備されていたのであるが、ワシントン海軍軍縮条約の制限が切れた昭和11年(1936年)から米軍が補強を再開、30センチカノン砲8門や30センチ榴弾砲12門などのほか、重砲群や巨大な地下室、発電所などを備えた近代的要塞を構築していたのである。
 ここに4月14日、バターン半島の先端に進出した重砲兵第一連隊の24インチ榴弾砲が砲撃を開始、19日午後、24センチ徹甲榴弾の1発が要塞の弾薬庫に命中し、大爆発を起し、砲撃戦の決着が着いたのである。
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 6月9日までに、孤立した部隊を残して、米比軍の全部隊が降伏したのである。

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