航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した"世界最初の海戦"ー(5)「マレー沖海戦」である
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昭和16年(1941年)12月10日、日本海軍の中型攻撃機84機が、イギリス東洋艦隊の新鋭戦艦「プリンス・オブ・ゥェールズ」と高速戦艦「レパルス」を撃沈した。
日本軍が進駐していた南部仏印(南部フランス領インドシナ)のサイゴン(現ホーチンン)付近の航空基地からの出撃である。海軍の開発した「九六式陸上攻撃機」それに「一式陸上攻撃機」で、大型爆弾や魚雷を搭載して長距離飛行の可能な攻撃機であった。
戦艦に対する「航空機の優位」を実証して見せたのである。爆撃と魚雷による撃沈であった。戦艦中心主義に終焉を告げることになったのである。
日本軍は大東亜戦争の開戦と同時に比島とマレー方面への侵攻によって、南方要域攻略作戦を開始する計画を立てていたのである。
他方、イギリス軍は日本の輸送船団がタイ国に上陸するのか、マレー半島へ上陸するのか掴みかねていたのであるが、イギリス東洋艦隊の主力「戦艦プリンス・オブ・ウェールズ」「巡洋戦艦レパルス」および4隻の駆逐艦がシンガポールを出撃、北上したのである。
かくして12月8日午前1時30分、日本軍はタイ国の国境に近いイギリス領マレーのコタバル上陸開始、イギリス軍もこれに応戦、真珠湾攻撃よりおよそ2時間前に交戦が始まったのである。
イギリス軍機により輸送船淡路山丸が航行不能、綾戸丸、佐倉丸大破。日本軍一時退避を決断。この間に、各方面の日本陸軍上陸作戦は成功したのである。
開戦三日にして、英国東洋艦隊主力は全滅したのである。海鷲が適確な集中砲撃を浴びせたのである。
こうして日本軍は、マレー半島を南下、イギリスの極東における本拠地、シンガポール攻撃に向かうのである。
戦果は昭和天皇に報告され、天皇は「ソレハヨカッタ」と喜んだと言うのである。昭和17年(1942年)4月15日には、マレー沖海戦に参加した航空隊と隊員に対して、連合艦隊司令長官山本五十六大将から感謝状が贈られたのである。
〈戦力余談〉
戦場にスピードを!第二次世界大戦の初期にドイツ軍は「電撃戦」でヨーロッパを席巻したといわれます。
戦車や装甲車を集中運用してスピードを発揮したというのです。
そして日本も、マレー半島で電撃戦のような作戦を実施したのです。それが「銀輪部隊」と言われるものでした。この当時の日本は工業後進国で、自動車産業は遅れていた一方で、”自転車”は品質が良く安価だったこともあって、世界に輸出していたのです。
この自転車と戦車部隊のいわゆる「鉄牛部隊」が日本軍電撃部隊の主役でした。
これが利便を発揮した背景には、マレー半島の道路が非常に発達していたことがありました。電撃戦にはおあつらえ向きだったのです。悪路や敵の障害物などで、よくパンクはしたと言います。ただ現地にはゴム樹林が多くゴム糊が容易に手に入ったという救いがありました。
そんなわけで、1個師団に数千台が配置されたといいます。
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