昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争開戦同日に⑥グアム島空襲を実施ー

f:id:yosiyosi21846:20210406165747p:plain  昭和16年(1941年)10月末、日本の陸海軍は、対米英蘭作戦を決定して、海軍のハワイ空襲と合せて、フィリピン、マレー半島を、そうして資源地確保をめざして、蘭印の攻略を企図。これらの主作戦と併行して企図された、グアム、ウェークの攻略、ビスマルク攻略などの中南部太平洋方面の作戦は、南東太平洋の戦いを有利にし、南方侵攻作戦を援護する枝作戦となるのである。
 11月下旬にはおおかたの日本軍は、小笠原諸島の母島に集合、12月8日、水上偵察機16機がグアム島の空襲を実施し、小型掃海艇「ペンギン」を撃沈したのである。ただ、この当時、グアムに住んでいた数十人の日本人が、アメリカ軍によって逮捕監禁されてしまったのだが。f:id:yosiyosi21846:20210223163824j:plain
 翌9日にも、日本軍は空襲を実施、10日午前0時、輸送船が大型発動艇(大発)を海におろす作業を開始したのである。3隊に分かれた南海支隊は、西岸は楠部支隊、東岸は堀江支隊、北岸は塚本支隊がそれぞれ上陸地点とし、海軍陸戦隊は塚本支隊と行動をともにしたのである。
 楠部支隊は午前4時25分上陸開始、塚本支隊は午前3時10分に上陸を開始、海軍陸戦隊も塚本支隊から5㌔ほどの地点に上陸したのである。
 かくして午前5時頃に米軍およそ80名と遭遇、30分ほどの戦闘で、米軍の死傷者は約10名、日本軍陸戦隊は死者1名と少数の軽傷者で、グアム政庁を占領したのである。
 米軍守備隊司令官・グアム総督マクミリン大佐は、ここからの抵抗は自殺行為で、現地住民にも被害がおよぶとして降伏を決意、大佐以下150名が捕虜となったのである。
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 他方、悪天候に阻まれ、揚陸に無理を重ねた堀江支隊は、輸送船から大発をおろす作業中に3隻を破損、やむなく船を海岸に乗り上げさせるという荒技の敢行でここでも1隻を使用不能としたのである。
 日本の太平洋拠点地域における唯一の米領グアム島は、米海軍にとって、西太平洋方面での作戦展開上、その前進基地としてきわめて重要な拠点であったが、ハワイ、ウェーク、フィリピンに通じる要衝でもあり、海底電線の中継地であったことなどからも、抑えたい要衝であったが、米本国から遠く、補給も困難などの弱点が災いしたようである。
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 グアムにおける戦闘は1日で終結、日本側戦死者1名、負傷者6名、アメリカ側は、戦死者36もしくは50名、負傷者80名、捕虜は、アメリカ兵と地元住民あわせて650名であったという。
 開戦時に拘束されていた在留日本人数十名を救出。その後、南海支隊はラバウルに転戦していったのである。
(了)