無視された「総力戦研究所」の研究成果、そして開戦

[昭和16年(1941)8月27日、首相官邸大広間で、総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣(窪田角一内閣)が研究成果発表のため、第三次近衛内閣と対峙したのである.

 午前9時に始まった〈窪田内閣〉の〈閣議報告〉は、午後6時まで長時間に及んだという。
 結論は、緒戦の勝利は見込まれるが、戦争は長期戦になって、物量劣勢の日本に勝機はない。日本は敗れるというものであった。日米開戦は回避を提言されたのである。
 東条陸相は終始メモを取る手を休めなかったという。

ここで、開戦までのトピックをさらってみる。
・昭和16年(1941)7月28日、日本軍南部仏印進駐
・8月1日、米、発動機燃料、航空機用潤滑油の対日禁輸
・8月27日、総力戦研究所「日本必敗」を提言
・9月2日、御前会議で「帝国国策遂行要綱」決定(対米英戦を決意)
・10月18日、東条内閣成立
・11月26日、米、ハルノートを提議
・12月1日、御前会議で対米英蘭開戦を決定

 模擬内閣の閣僚になった研究生たちは、兵器増産の見通しや食糧、燃料の自給度、運送経路、同盟国との連携などを種々のデータを基に分析、軍事・外交・経済のそれぞれの局面について、日米戦争の展開を綿密に予測したのである。
 閉会後の東条は・・・

「これはあくまでも机上の演習であって、実際の戦争というのはこのようなものではない。戦いというものは、計画通りにはいかない。事実、勝てるとは思わなかった日露戦争大日本帝国は勝利したのであります。意外な事が勝利に繋がったのであります・・・」と、取り合わなかったのである。
 元東京都知事猪瀬直樹氏の著作「昭和16年夏の敗戦」に、「データより空気」が日本最大の悲劇を生んだとして、詳細に綴られている。
 かくして、昭和16年(1941)12月8日、午前1時30分、
南方資源地帯の確保を目指して、英領マレー半島コタバルに日本軍が上陸作戦を決行。
 そのおよそ2時間後、海軍機動部隊がハワイ真珠湾攻撃を開始、3年8ヶ月におよぶ太平洋戦争が始まったのである。
 この同じ12月8日、約4万の日本軍が香港総攻撃を開始、香港島の英軍が12月28日には降伏勧告を受諾するのである。

 短期決戦を目論んだ洋上戦争であったが、3年8ヶ月に及ぶ長期戦となり、悲惨な結末を遂げるのである。
 ここで、日本の戦史を靖国神社の観点から見てみよう。靖国神社の祭神は幕末から明治維新にかけて功績のあった志士に始まるのだがー
日清戦争ー1万3619柱
日露戦争ー8万8439柱
満州事変ー1万7176柱
日中戦争ー19万1250柱
・太平洋戦争ー213万3915柱
平成16年10月までの総合計が246万6584柱である。
太平洋戦争の祭神は、なんと全体の86.5%に当たる。悲惨極まりない多さである。

 果たして当時の為政者は戦争の終末をどのように描いていたのだろうか?
亡くなられた多くの兵士の御霊に対し、唯々、落涙を禁じ得ない。
 私自身は4度ほど靖国参拝を重ねたが、帰途には必ず千鳥ヶ淵戦没者墓苑に足を延ばし、菊花を手向けてきた。

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おススメ!2大名著「現代語訳『暗黒日記』」、『戦争の大問題』

 首記の図書はそれぞれ、伊藤忠商事で社長、会長を務められ、2010年に民間出身で初の中国大使を務められた丹羽宇一郎氏の著作である。
「現代語訳『暗黒日記』」は、「東洋経済新報」や「中央公論」などで軍国主義を貫いた外交・政治評論家でジャーナリストの清沢 冽(きよし)の著作「暗黒日記」に丹羽氏が編集・解説を加えた現代語訳である。

巻頭に
大東亜戦争は非常なる興亡の大戦争である。
筆を持つ者が、後世のために、何らかの筆跡を残すことは、その義務である。
すなわち書いたことのない日記をここに始める。
将来、大東亜外交史の資料とするためである。
神よ、日本を救え。

昭和18年(1943年)10月1日
清沢 冽

とある。

①努めて戦争に近づかないように注意深く行動
②強力すぎる武器を持たないよう自戒
③戦争に近づけば動物の血が騒ぐ
④強力な武器を持てば必ず使ってみたくなる。


76年前に清沢が嘆いた「権限と責任をあいまいにする日本人」は、戦後76年を経てなお変わらない姿であり、これからも大きく変わることは難しいと、しっかり心に刻みたいー


国際問題を自由・平等と平和で解決してこそ、日本が「世界一」と本当に胸を張って誇れる国になるのだー


・誰がどういう権限で開戦を決定したのか?
・果たして、その責任はどうなったのか?
・蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、叡智のみがこの国を救うものであるー


・強力な武器を持たないこと。
・戦争に近づかないこと。
・人間の獣性を自覚すること。


満州事変は天皇の裁可を得ずに軍を動かして実行されたー天皇の大権を侵した責任は誰にー


・軍人を抑える政治家がいなかったー
・軍人を抑え得る軍人がいなかったー



昭和19年6月、マリアナ沖海戦で日本軍敗北、日本海軍に、マリアナ諸島を奪われた後の作戦がなかったのはなぜか?負けるとわかっている戦争を誰が続けると
決めたのか?



・今日のメディアの従事者には・・・真実を追求する使命感と、それを可能にするリベラルアーツ(一般常識=人文科学、社会科学、自然科学の基礎分野を横断的に教育する)が常識のはずであるー


・戦争末期の1年間で、200万人を超える犠牲者を生んだというー太平洋戦争の期間は3年8ヶ月である。2年8ヶ月で止めていれば、200万の国民が死なずに済んだのである。



2冊目は「戦争の大問題」である。
巻頭に・・・
戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。
平和について議論する必要もない。

丹羽氏は、


戦争をなくすために大事なことは
まず戦争を知ることである、
と。

 

 日本人は72年間戦争をせずにきたが、
同時に長い間戦争を知ろうとせずに過ごしてきた。
あと10年もすれば
戦争を知っている世代はいなくなるだろう。
我々は戦争の語り部を失ってしまうのだ。

いまが最後のチャンスである。

 と呼びかけているのだが、そう呼びかけた同書の第1刷発行は2017年8月である。
すでに5年が経過しようとしている。
 そして今、図らずも「ウクライナ戦争」の最中である。
戦場の報道風景からは、果たして現場の肌感覚をどの程度共有しうるだろうか?


どのような読後感を抱くのも、また哲学の行使も、個人それぞれのものであるが、


丹羽氏は、日本は特別な国であれ、と・・・

 

 日本は世界の中で普通の国を目指すべきではない。日本が目指すべきは世界中から尊敬される国である。尊敬される国とは世界を屈服させる強国ではない
・・・平和的手段で問題を解決する・・・
当たり前のことが当たり前にできる国が「特別な国」なのである、と結んでいる。


これは私の持論だが、
「世界唯一の核被爆国」という実体験の故を以て、
日本は特別な国になるべき宿命を背負っているのだと思う。


昭和19年(1944年)6月のマリアナ沖海戦以後に、200万の日本人が死んでいます。あの段階で
戦争を止めていれば東京大空襲はなかった、沖縄戦もなかった、広島、長崎の原爆投下もなかったのです・・・」とは、
日本遺族会会長(元衆議院議員)の古賀誠氏の言葉だそうである。

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アジア・太平洋戦争ー昭和20年(1945年) 、いよいよ終戦の年である。

完膚なきまでに叩きのめされて、この年、12年に及んだ日中戦争、そして太平洋戦争が終結する、無条件降伏である。

〈104〉1月9日、 連合軍、ルソン島のリンガエン湾に上陸
〈105〉2月3日、 連合軍、マニラ市街に突入

〈106〉2月19日、 米軍、硫黄島に上陸
〈106〉米軍、マニラを完全占領
〈107〉3月10日、 東京大空襲
〈108〉3月13日、 大阪大空襲
〈109〉3月17日、 硫黄島の日本軍守備隊玉砕

〈110〉4月1日、 米軍、沖縄に上陸
〈111〉4月6日、 日本軍、沖縄方面に第1次航空総攻撃開始(菊水1号作戦)
〈112〉4月7日、 鈴木貫太郎内閣発足、沖縄水上特攻部隊(第2艦隊)崩壊、戦艦「大和」沈没

〈113〉連合軍、ミンダナオ島のダバオ攻略、英印軍、ラングーンを占領
〈114〉5月14日、 政府首脳、ソ連を仲介とした終戦工作の方針決定、名古屋大空襲
〈115〉5月29日、 橫浜大空襲

〈116〉6月8日、 御前会議、本土決戦の方針の確認
〈117〉6月18日、沖縄の第32軍組織的抵抗終わる
〈118〉6月19日、福岡大空襲
〈119〉6月22日、御前会議、終戦工作促進の確認
〈120〉6月23日、義勇兵士法公布、15~60才の男性、17~40才の女性で国民義勇戦闘隊を編成
〈121〉7月10日、仙台空襲、終戦工作のため近衛元首相の派遣ソ連に申し入れ
〈122〉7月18日、ソ連政府、近衛特使の受け入れを拒否
〈123〉7月26日、米、英、中によるポツダム宣言発表(日本政府黙殺)
〈124〉7月30日、ソ連に条件付き和平の斡旋を依頼

〈125〉8月6日、  広島に原子爆弾投下される
〈126〉8月8日、 ソ連、日本に宣戦布告、ソ連満州に侵攻
〈127〉8月9日、 長崎に原爆投下される、御前会議開催
〈128〉8月10日、 未明、天皇の「聖断」によって終戦決定、国体護持を条件に
          ポツダム宣言受諾を連合国に申し入れ
〈129〉8月12日、 日本の降伏条件に対する連合国の回答電文が到着
          電文の字句をめぐり、軍部、政府でポツダム宣言受諾可否が紛糾する
〈130〉8月14日、 御前会議でポツダム宣言受諾(無条件降伏)を最終決定
〈131〉8月15日、 正午、玉音放送が行われる
           日本、無条件降伏
苦難の戦後が始まるー


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アジア・太平洋戦争ー昭和19年(1944年)1月~11月24日を見る

この年は、大本営インパール作戦の認可で明けるー理不尽なあの「白骨街道」を生んだ作戦である。

〈80〉1月7日、 大本営インパール作戦を認可
〈81〉1月24日、 大本営大陸打通作戦(中国大陸ー1号作戦)
〈82〉2月6日、 クェゼリンの守備隊玉砕
〈83〉2月23日、 ブラウンの守備隊玉砕
〈84〉3月8日、 インパール作戦、第33師団進撃開
〈85〉3月15日、 第15師団、第31師団インパールに向け進撃開始
〈86〉4月6日、  第31師団、インパール北方コヒマを占領
〈87〉4月17日、 支那派遣軍大陸打通作戦開始
〈88〉6月1日、  第31師団、補給途絶のためコヒマを放棄、撤退
〈89〉6月15日、 米軍、サイパン島に上陸
〈90〉6月16日、 成都から飛来したB-29が北九州を爆撃(B-29による日本初空襲)

〈91〉6月19日、 マリアナ沖海戦
〈92〉6月28日、 ビアク島守備隊玉砕
〈93〉7月5日、  ビルマ方面軍、第15師団にインパール作戦中止命令
〈94〉7月7日、  サイパン島の日本軍守備隊玉砕
〈95〉8月2日、  テニアン島の日本軍守備隊玉砕 
〈96〉8月11日、  グアム島の日本軍守備隊玉砕
〈97〉9月10日、  中国雲南省拉孟の日本軍守備隊玉砕
〈98〉9月14日、  中国雲南省騰越の日本軍守備隊玉砕
〈99〉10月19日、 アンガウル島の日本軍守備隊玉砕
〈100〉10月23日、 レイテ沖海戦
〈101〉10月25日、 海軍に神風特別攻撃隊、初出撃(指揮官・関行男大尉)
〈102〉11月23日、 ペリリュー島の日本軍守備隊玉砕
〈103〉11月24日、マリアナ諸島から出撃したB-29による東京初空襲ー以後、空襲が激化する。
 
 あらためてこうして列記してみると、いかに玉砕に次ぐ玉砕であったかが分かるのである。はたして「皇国日本」とは何だったのだろう。この年7月には、絶対防衛圏サイパンテニアンでの相次ぐ玉砕、そうして7月18日には、防衛権の死守ならず、東条英機内閣はその責任をとって総辞職するのである。もはや国体は崩壊寸前であったのである。国体護持の責任主体を考えるとき、東条の辞職などでは、そもそも済む話ではないのである。

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太平洋戦争ー昭和18年(1943年)1月~11月25日を見る

昭和18年(1943年)は、ブナ守備隊、続いてギルワ守備隊の全滅で明ける(東部ニューギニア)。

〈59〉 1月2日、 ブナ守備隊、続いてギルワ守備隊(東部ニューギニア)全滅
〈60〉 1月29日、 レンネル島沖海戦
〈61〉 2月2日、 ガダルカナル島から撤退開始
〈62〉 2月2日、  イサベル島沖海戦
〈63〉 2 月8日、 ガダルカナル島から撤退完了
〈64〉3月2日、 ビスマルク海海戦
〈65〉3月27日、アッッ島沖海戦
〈66〉4月7日、  フロリダ沖海戦
〈67〉4月18日、 連合艦隊司令長官山本五十六戦死(死後元帥に昇進)

〈68〉5月29日、アッッ守備隊玉砕
〈69〉7月5日、 クラ湾海戦
〈70〉7月12日、 コロンバンカラ島沖海戦
〈71〉7月29日、キスカ守備隊撤退
〈72〉8月6日、  ベラ湾夜戦
〈73〉8月17日、 第1次ベララベラ海戦
〈74〉9月6日、  サラモア、ラエから撤退
〈75〉10月6日、 第2次ベララベラ海戦
〈76〉11月2日、 ブーゲンビル島沖海戦
〈77〉11月24日、 マキン島守備隊玉砕
〈78〉11月24日、 セントジョージ岬沖海戦
〈79〉11月25日、 タラワ島守備隊玉砕
開戦以来、まる2年である。残り1年8ヶ月。撤退、玉砕が目立つようになって、これらのいわば「消耗戦」が、太平洋戦争全体に持つ意味をどう解すべきなのだろうか。

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太平洋戦争ー昭和17年(1942年)6月8日~昭和17年年末まで

太平洋戦争昭和17年(1942年)後半をなぞってみる。
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昭和17年(1942年) 6月8日、 陸軍北海支隊ーアッッ島占領、海軍陸戦隊ーキスカ島占領
㊴   〃    7月6日、 海軍飛行場設営隊、ガダルカナル島に上陸
㊵   〃    7月29日、 南海支隊、東部ニューギニアのココダを占領
㊶   〃    8月7日、 米第一海兵師団、ガダルカナル島に上陸、米軍の反攻開始
㊷   〃    8月9日、 第1次ソロモン海戦
㊸   〃    8月18日、 一木支隊、ガダルカナル島タイポ岬に上陸
㊹   〃    8月21日、 一木支隊、ガダルカナル島の飛行場奪回攻撃に失敗全滅
㊺   〃    8月24日、 第2次ソロモン海戦
㊻   〃    8月31日、 川口支隊主力、ガダルカナル島に上陸
㊼   〃    9月12日、 川口支隊、ガダルカナル島の米軍に総攻撃
㊽   〃    9月18日、 南海支隊、ポートモレスビー北東約50㌔のイオリバイヮ占領
㊾   〃    9月26日、 南海支隊、ブナに向けて撤退開始
㊿   〃    10月9日、 弟2師団主力、ガダルカナル島に上陸
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51  〃     10月12日、サボ島沖夜戦
52  〃     10月13日、戦艦「金剛」「榛名」ガダルカナル島ルンガ飛行場を砲撃
53  〃     10月24日、弟2師団、ガダルカナル島の米軍に総攻撃開始(~25)
54  〃     10月26日、南太平洋戦争、
55  〃     11月12日、第3次ソロモン海戦
56  〃     11月15日、弟38師団、ガダルカナル島に上陸
57  〃     11月30日、ルンガ沖海戦
58  〃     12月8日,  日本軍、東部ニューギニア・バサブア守備隊全滅
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この12月8日で、開戦以来ちょうど一年である。半年の節目にミッドウエー海戦での、空母4隻を失う大敗北を境に劣勢に向かう日本軍は、空母に変わる飛行場に異常なまでに固執したのである。それまでほとんど知られることもなかった、「ガダルカナル島」で大きな戦力を消耗したのである。終戦まで2年8ヶ月である。
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太平洋戦争ー昭和16年(1941年)12月10日⑦マキン・タラワ島占領~昭和17年(1942年)6月6日㊲ミッドウエー海戦まで

開戦からちょうど半年180日のミッドウエー海戦までをざっと概観する。
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昭和16年(1941年)
⑦12月10日マキン・タラワ島占領
⑧12月10日マレー沖海戦ー飛行機が単独で戦艦を沈めた最初の海戦
⑨12月20日ミンダナオ島ダバオ占領
⑩12月22日ルソン島リンガエン湾に上陸
⑪12月23日海軍陸戦隊、ウェーク島占領
⑫12月25日弟23軍、香港占領

昭和17年(1942年)
⑬1月2日 弟14軍、マニラ占領
⑭1月11日 海軍陸戦隊、セレベス島メナドに落下傘降下
⑮1月23日 ニューブリテン島のラバウル占領
⑯1月24日 第一次バターン半島総攻撃開始(失敗)
⑰2月3日  蘭印のアンボン島占領
⑱2月4日  ジャワ沖海戦
⑲2月14日 陸軍落下傘部隊、蘭印のバレンバンに降下
⑳2月15日 弟25軍、シンガポール占領
㉑2月19日 バリ島沖海戦
㉒2月27日 スラバヤ沖海戦
㉓2月28日 バタビア沖海戦
㉔3月1日  弟16軍、蘭印のジャワ島に上陸
㉕3月5日  首都バタビアを占領
㉖3月8日  ビルマのラングーン占領
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㉗ 〃   東部ニューギニアのラエ、サラモア上陸
㉘3月9日  弟16軍、蘭印のバンドン占領
㉙4月3日  第2次バターン半島総攻撃開始
㉚4月5日  セイロン島沖海戦
㉛4月9日  バターン半島の米比軍降伏
㉜4月18日  ドゥリットル空襲(日本本土初空襲)
㉝5月1日  弟18師団、ビルママンダレー占領
㉞5月3日  海軍陸戦隊、ソロモン諸島のツラギ占領
㉟5月5日  弟4師団、フィリピンのコレヒドール島占領
㊱ 〃    珊瑚礁沖海戦
6月5日  ミッドウェー海戦(~6) 空母4隻、その艦載機290機すべてを喪失、
      この敗北でMI作戦は中止され、日本の「敗北」に至る転換点になった。

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 開戦からミッドウェー開戦まで180日、ちょうど「半年」である。太平洋戦争の全期間が3年8ヶ月である。
のこりの3年2ヶ月はひたすら敗戦へ向けて、転がり落ちて行ったのである。
多くの兵士の死をもって戦った「意味」があったとは、到底思えないのである。
多くの惨害を浴びてなお踏みとどまれなかったのは、一体なぜなのだろうか!!??


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