2020-10-01から1ヶ月間の記事一覧

突然脇道へそれますがー

「消費税」の議論である。 高齢者の多い時代、加えて人口減少社会には、必須だと思う。 問題の本質は、その逆進性、富の再分配という観点から、富裕層と貧困層との間の”公平感”を眼目に、格差をなくすことだと思う。 コロナ禍で下げる議論、下げない議論さま…

日本戦史の極点「ビルマ攻略戦」

それまで大本営はビルマ進攻を考えていなかった。ビルマ作戦の詳細は、開戦時においても固まっていなかったという。当初は、マレー作戦への背後からの支援が目的であった。限られた兵力の中で、連合軍への防衛線として、南部ビルマで止めるか、ビルマ全土に…

日本戦史の極点「フィリピン攻略戦」

日本の資源獲得に向けた南方進出の三本柱が、フィリピン、マレー、そしてジャワであり、最終目標のオランダ領東インドの中心・ジャワに向けて「フィリピン攻略戦」が展開された。昭和16年(1941年)12月8日~昭和17年(1942年)6月9日であ…

日本戦史の極点「シンガポール占領」

太平洋戦争における日本軍部の、戦争遂行の基本方針は、インドネシア(当時のオランダ領東インド)の石油を中心とした、東南アジアの資源の確保し、そして自給体制を構築したうえで、アメリカやイギリスと向き合うというものであった。 当然に、南方資源地帯…

日本戦史の極点「真珠湾攻撃」~太平洋戦争へ

昭和16年(1941年)12月8日午前3時20分、日本海軍の行ったアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島の真珠湾軍港への奇襲攻撃であり、ここから太平洋戦争が始まったのである。 大東亜戦争における南方作戦の一環、イギリスへ対峙するマレー作戦に次いで開…

日本戦史の極点「盧溝橋事件」とその前後

そもそもの起こりは、朝鮮東学党の乱への日本と清国の対応、支配権を争った両国の戦争である。戦争国日本は、遼東半島や台湾の割譲など戦果を収めるが、日清講和条約(下関条約)締結のわずか6日後の明治28年(1895年)4月23日、ロシア、ドイツ、…

日本戦史の極点「満州国」②

満州国には、都市部で近代的な生活を営んだ、行政機関の関係者や日本人相手に商売などをしていた人たちの一方で、北部の奥地に開拓民と呼ばれた人たちがいた。およそ27万人といわれている。 開拓民には三つの類型がある。 一つは、武装移民(試験移民)と…

日本戦史の極点「満州国」再見①

昭和4年(1929年)10月、ニューヨーク・ウォ―ル街に端を発した世界大恐慌の影響で、日本経済は不況のどん底にあった。一方、農村部は天候不順による作物の不作で、人口を賄う生産がおぼつかない状況にあった。このような情勢の中で、日本は、対外膨張…

閑話休題

そもそも「安全なうちに、『安全』を確保しておくのです」とは、自動車教習所で教官から教わった言葉である。周囲の状況が安全を担保しているうちに、最終的な安全を確保しておくことである。 戦時下はどうであったか。 大本営作戦課が絶対国防圏を言い出し…

戦史と世相ーシリーズ⑥ 「本土決戦~一億玉砕」昭和20年(1945年)

昭和20年(1945年)6月23日、義勇兵役法公布。徴兵対象を拡大、新たな兵役義務が課された。 15歳以上~60歳以下の男子と、17歳以上~40歳以下の女子に義勇兵役、国民義勇戦闘隊へ編入。 沖縄戦では、義勇兵役法施行に先駆けて、「鉄血勤皇…

戦史と世相ーシリーズ⑥ 「本土決戦~一億玉砕」昭和20年(1945年)

昭和19年(1944年)6月19日(~20日)には、マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で日本海軍とアメリカ海軍の海戦、いわゆるマリアナ沖海戦が展開される。日本海軍は、空母3隻、搭載機、出撃潜水艦に多大な損失を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失し…

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

第3次近衛内閣の後を受け、太平洋戦争中の大方の期間を東条英機が内閣総理大臣をつとめた。昭和16年(1941年)10月18日~昭和19年(1944年)7月22日である。東条は、戦争の収束をつけられぬまま総辞職、終戦への繋ぎ内閣として小磯國昭…

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

第3次近衛内閣の後を受け、太平洋戦争中の大方の期間を東条英機が内閣総理大臣をつとめた。昭和16年(1941年)10月18日~昭和19年(1944年)7月22日である。東条は、戦争の収束をつけられぬまま総辞職、終戦への繋ぎ内閣として小磯國昭…

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

昭和18年(1943年)11月20日(~11月23日)には、ギルバート諸島ブタリタリ環礁において、日本軍守備隊とアメリカ軍との戦闘が行われた。いわゆるのマキンの戦いである。 翌11月21日(~11月23日)からは、同じギルバート諸島のタラワ…

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

振武隊は、海軍の特攻隊として先に動き出していた神風特攻隊と歩調を共にするようになっていく。そして沖縄戦開始の昭和20年(1945年)4月1日、第20振武隊を皮切りとして、知覧からの特攻出撃が始まるのである。それ以降、海軍の鹿屋航空基地とと…

戦史と世相ーシリーズ⑤ 「若き兵士たちの悲劇」昭和18年(1943年)~昭和19年(1944年)

この時期の戦跡を見てみようと思う。 1943年(昭和18年)1.02日本軍、ブナ守備隊、ギルワ守備隊全滅(東部ニューギニア) 1.29レンネル島沖海戦 2.02ガダルカナル島から撤退開始 3.02ビスマルク海海戦 3.27アッツ島沖海戦 4.0…

戦史と世相ーシリーズ④ 「立ち上がれ小国民」昭和16年(1941年)~昭和18年(1943年)

昭和17年(1942年)4月18日には、アメリカ陸軍航空軍の爆撃機によって、日本本土が初めて空襲を受ける。指揮官ジミー・ドーリットル大佐にちなんで、ドーリットル空襲と呼ばれ、航空母艦ホーネットから発信され、太平洋戦争で初めて日本本土が攻撃…

戦史と世相ーシリーズ④ 「立ち上がれ小国民」昭和16年(1941年)~昭和18年(1943年)

この時点には、政局が大きく動いた。 事実上の改造内閣である第三次近衛内閣が、発足後3ヶ月で東条英機陸相と決裂、近衛内閣は、後継内閣模索の中、一方的に内閣を放棄したのである。 この事は、米国・ルーズベルト大統領から、中国大陸、仏領インドシナか…

戦史と世相ーシリーズ④ 「立ち上がれ小国民」昭和16年(1941年)~昭和18年(1943年)

第一次大戦後は、戦時動員力の強化を進めるため、学校教練だけではなく、特に、1926年(大正15年)の青年訓練所の設立後は、一般青年に対しても実施された。いわゆる「軍事教練」である。旧制中学校以上の教育機関で終戦まで実施されたのである。射撃…

戦史と世相ーシリーズ④ 「立ち上がれ小国民」昭和16年(1941年)~昭和18年(1943年)

「小国民」とは、戦時中に使われた、小学生に向けて使われた呼び名。小さくとも”国民”なんだぞ、頑張れという意味だ。一方、「少国民」という言葉は、銃後に位置し、年少の皇国民という意味だそうである。 さて、昭和16年(1941年)1月8日、ときの陸…

戦史と世相ーシリーズ③ 「銃後の女性たち」昭和13年(1938年)~昭和15年(1940年)

留まることなく戦闘は続いてゆくー。 昭和13年(1938年)12月18日から重慶爆撃が開始される。昭和12年(1937年)の第二次上海事変で、日本軍が首都南京を攻略・占領、蒋介石の中国国民党政府はやむなく漢口へ、さらに重慶へと首都を移転した…

戦史と世相ーシリーズ③ 「銃後の女性たち」昭和13年(1938年)~昭和15年(1940年)

ぜいたくは敵だー 1939年(昭和14年)2月に、国民精神総動員運動を挙国実践運動として強化する方針を打ち出したのが、平沼騏一郎内閣である。精動委員長荒木貞夫文相のもとで、9月から毎月1日を興亜奉公日と定め、国民に、前線の労苦を忍ぶ耐乏生活…

戦史と世相ーシリーズ③ 「銃後の女性たち」昭和13年(1938年)~昭和15年(1940年)

さらなる戦意高揚をめざしたか、軍部は、武漢を利用したメディア戦略を展開する。 文芸春秋社の菊池寛に要請して、当時の人気作家や流行作家が集められたという。 陸軍には、林芙美子や深田久弥、川口松太郎らが、海軍には、菊池寛や古屋信子、佐藤春夫らが…

戦史と世相ーシリーズ③ 「銃後の女性たち」昭和13年(1938年)~昭和15年(1940年)

大東亜戦争(日中戦争)の長期化で、総力戦の遂行が必要になった。このような事態向けて、昭和13年(1938年)第一次近衛内閣において、「国家総動員法」が制定された。。この法律は、人、物すべての資源を政府が統制し、運用できるとした法律である。…