日本戦史の極点「真珠湾攻撃」~太平洋戦争へ
昭和16年(1941年)12月8日午前3時20分、日本海軍の行ったアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島の真珠湾軍港への奇襲攻撃であり、ここから太平洋戦争が始まったのである。
大東亜戦争における南方作戦の一環、イギリスへ対峙するマレー作戦に次いで開かれた戦端である。アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は一時的なるものの、その戦闘能力を完全に喪失、アメリカ軍の艦隊に対し、開戦初頭に大きな打撃を与え、南方作戦を援護する目的を達成したのである。
そもそも、オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は明治41年(1908年)に設置され、日本海軍には脅威であった。オアフ島要塞と呼ばれ、戦艦を威圧する16インチ砲・砲台のほか、上陸可能な死角もなかった。明治43年(1910年)11月には、海軍少佐の山本英輔が斎藤実海軍大臣に真珠湾の港湾部図面を提出しているのである。当初、真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊を、日本近海において艦隊での決戦を想定した。
これに対し、昭和14年(1939年)に連合艦隊司令長官に就任した海軍大将・山本五十六は別の構想を描いていたのである。山本にはアメリカにおける長期の滞在経験があり、加えて海軍軍政や航空畑を歩いた経験から、航空攻撃によって一挙に決着をつけることが必定であると構想し、すでに昭和3年(1928年)にはハワイ攻撃を提唱していたのである。
昭和16年(1941年)1月26日ー27日、戦艦長門艦上において、第11航空艦隊参謀長の大西瀧次郎少将あて、ハワイ奇襲作戦の立案について「日米開戦の已む無きに至った場合、余程思い切った戦法を取らなければ・・・第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力で痛撃を・・・米国艦隊の西太平洋への進行を不可能ならしむる・・・自ら指揮官を拝命し、全力を挙げる決意・・・いかなる方法によって実施するか研究を・・・」と、依頼したのである。
かくして、昭和16年(1941年)11月26日、千島列島の単冠湾(ひとかっぷわん)から出撃、「赤城」「加賀」「飛竜」「蒼竜」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の航空母艦を中心として、戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻それに補給艦で編成した機動部隊がハワイへ進出。
現地時間7日(日)午前7時55分から2回、360機の雷撃機、水平爆撃機、戦闘機で真珠湾在泊中のアメリカ太平洋艦隊艦艇、飛行場などを奇襲したのである。
軍港に在泊していた戦艦8隻中、3隻が沈没、1隻が横転、残りは大破。軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、この他の艦艇も沈没もしくは大破したのである。航空機は180機が炎上、アメリカ将兵2300名が戦死した。日本側の損害は、航空機29、特殊潜航艇5隻、指揮官は南雲忠一中将であった。はからずも、日本側の最後通牒が渡されたのは、攻撃が終わったのちの12月9日(アメリカ時間8日)、駐アメリカ大使野村吉三郎によって、ワシントンD・Cで国務長官コーデル・ハルに手交されたという。
この日の議会において、ルーズベルト大統領は「汚辱の日として忘れることがない12月7日」と宣戦演説を行っている。真珠湾攻撃は、今なお、アメリカの国防戦略にきわめて大きな影響を与えているといわれる。
アメリカは、昭和16年(1941年)12月8日(日本時間)日本の真珠湾攻撃を受けて参戦。そして12月11日、ドイツ、イタリアの宣戦をうけて、ヨーロッパ方面にも参戦したのである。