2020-11-01から1ヶ月間の記事一覧

アジア太平洋戦争の戦跡ー「ビルマ(ミャンマー)」編

この戦争の最中には、象徴的な”戯れ言葉”が語られていたという。 「ジャワは極楽、ビルマは地獄、生きて帰れぬニューギニア」と言うのだそうだ。 ニューギニアは平地が少なく、農地が少ない。まったくもって”密林の島”なのである。そうした環境の下で、少数…

アジア太平洋戦争の戦跡ー「タイ国」編

あまりに広大な戦場である。一方の東南アジア諸国には、日本軍によって現地住民への虐殺事件が繰り返されている。他方、太平洋諸島においては、あまたの日本軍全滅の戦地がある。東南アジアで奪った多くの現地住民の命とその地で落命した日本軍兵士の命、太…

日本戦史の極点「日本の無条件降伏」

アジア太平洋戦争終決の年、昭和20年(1945年)は日本にとって決定的な事柄が続いた。 ① 4月1日、連合軍沖縄上陸 ② 7月28日、日本政府ポツダム宣言「黙殺」 ③ 8月6日、広島に原爆投下 ④ 8月9日、長崎に原爆投下 ⑤ 8月9日、 ソ連満州侵攻 ⑥ 8月14日、日…

日本戦史の極点「ソ連軍満州侵攻」②

l今日は、昭和16年(1941年)~昭和31年(1956年)の満州侵攻、強制抑留、引揚げの歴史に触れてみます。 ● 昭和16年(1941年)4月13日ー 日ソ中立条約調印 11月28日ー ドイツ、ソ連に侵攻 ● 昭和18年(1943年)11月28日ー テヘラン会談ーソ連スターリンがチ…

日本戦史の極点「ソ連軍満州侵攻」

ソ連のスターリンは、チャーチル首相(英)とルーズベルト大統領(米)にドイツが降伏した後は早期に対日戦に参加する旨の宣言をした。 これが昭和18年(1943年)11月28日の「テヘラン会談」である。 そして昭和20年(1945年)2月4日には、スターリンが対日…

日本戦史の極点「フィリピン防衛線」

「IShall Return」 3年前、マッカーサーが誓約した言葉である。いま、私はフィリピンを去ることになったが、必ず戻ってくる、と。 風速30メートルの暴風雨をものともせず、マッカーサーがレイテ湾に侵入してきた。 昭和19年(1944年)10月17日のフィリ…

日本戦史の極点「サイパン島の戦い」

南国の強烈な紫外線が照り付ける、その強さは日本の数倍だという、ゆめゆめ日焼け止め対策はお忘れなくとのことなのである。「サイパン」の観光ガイドを開く。カロリン語で「ひと休み」という”マニャガハ島”。名前のとおりゆったりとした時間が流れる小さな…

日本戦史の極点「インパール作戦」

援蒋ルート遮断を目指して、無謀な戦いはスタートしたのである。 連合国軍の、蒋介石への支援である。牟田口廉也中将率いる第15軍による、日本軍のインド侵攻作戦である。昭和19年(1944年)3月6日、インパールとコヒマを目指した。 日本軍は、88日間にわ…

日本戦史の極点「ガダルカナル島の戦い」

その消耗の激しさにおいて、ミッドウエー海戦に比肩され、日本の戦史に特筆されるソロモン諸島・ガダルカナル島の戦役である。太平洋戦争において攻守の大きな転換点となった戦いである。昭和17年(1942年)8月8日夜半の発生が、第一次ソロモン海戦である。 …

日本戦史の極点「ミッドウエー海戦」

あの真珠湾攻撃のあとも、日本軍は潜水艦によって対米通商破壊作戦を展開していたのだという。日本軍の潜水艦は、アメリカ西海岸付近の商船の攻撃に留まらず、沿岸の石油施設にも砲撃を加えていたという。これがアメリカ国民の士気低下を招き、これによる士…

日本戦史の極点「インドネシア占領」

インドネシアは、17世紀以来長く、オランダ領東インドという植民地であった。 とりわけ19世紀には、農民が強制的な栽培を強いられ、過酷な収奪が続いたのである。 明治44年(1911年)になって、反華僑よって大衆的なイスラム同盟が組織され、オランダに…