日本戦史の極点「インドネシア占領」

インドネシアは、17世紀以来長く、オランダ領東インドという植民地であった。

とりわけ19世紀には、農民が強制的な栽培を強いられ、過酷な収奪が続いたのである。

明治44年(1911年)になって、反華僑よって大衆的なイスラム同盟が組織され、オランダに対して

自治を要求する政治団体として活躍するようになる。1920年代からは、多くの民族主義運動が組織されるようになってゆく。そののちインドネシア共産党武装蜂起失敗ののちに、民族政党「インドネシア国民党」が中心になって、1945年のインドネシア共和国独立が実現するのである。

これが大要、インドネシアの被植民地としての歴史である。

この歴史の中に、1940年以降、日本占領の歴史が登場する。

1940年(昭和15年)、オランダがドイツによる占領によって植民地展開能力を低下する中、日本の陸海軍がオランダ軍と連合軍を圧倒してゆくのである。

大方のインドネシア人が、オランダによる長い植民地支配からの解放を、おそらくは大きな安堵感をもって享受したであろうことは容易に想像できる。日本はオランダによって禁止されていた「インドネシア」の名の復活もさせたのであった。

日本軍の戦略は、ひとえに連合軍との戦いに勝利することにあったと思われるが、占領後の日本は、結社、集会、政治的言論、民族旗使用を禁止するなど、一時期、インドネシア民衆の期待に背を向けてしまったのである。戦争遂行の最中には、日本式の厳しい軍政や皇民化が求められ、一部に過酷な重労働を課せられた者が出るなどして、解放の安堵から一転、忍耐を強いられる「負」の面もあった。これらの日本軍の所業には功罪両面の認識があるようである。

 だが一方では、日本の軍政の施策や厳しい教育がもたらした「正」の面に対する賛意もある。優秀な人材が育成されたこと、英語やオランダ語ではなく「インドネシア語」が公用語になったことなど、インドネシアインドネシア民衆にとっては大きな財産になったと信じたいのである。

日本人は、我らが「アジアの光」であると高唱したのかもしれない。

19世紀末の日本は、アジアで唯一の技術や社会の近代化に成功した国であり、大方のアジアの国々が欧米の支配下にあった時代にも独立を保ち、日露戦争にも勝利した。

それだけに、その先の泥沼の戦禍が誠に嘆かわしいのである。

惨憺たる国内事情からの止むをえない、対外膨張政策のスタートとはいえ、あの満州事変からの一連の戦である。何をどこまで費消したらという戦役からの撤退の「目安=答」を持たない戦であった。軍人はどこまでも戦場を探すものなのだろうか。悲しい性(さが)か。

 

 

 

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