ビルマの戦い、そして「インパール」の悲劇へ

日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍✕イギリス軍・アメリカ軍・国民革命軍の戦い、「ビルマの戦い」である。

 昭和16年(1941年)アジア・太平洋戦争の開始直後から、昭和20年(1945年)の終戦直前まで続いた戦いである。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐる、第二次世界大戦の重大な局面の一つとされる。

 日本軍は、ビルマ独立義勇軍の協力を得てイギリス軍を急襲、首都ラングーンを陥落させたのである。ビルマ中北部の戦闘では、連合国軍に蒋介石の遠征軍が加わって激戦が展開されたが、日本軍がビルマ全土を制圧したのである。

 すべては、英米による援蒋ルート(蒋介石を支援する)の遮断が目的であった。

 イギリスは、アジアにおける植民地の確保が主たる目的であった。

 一旦は退却した連合軍であったが、昭和18年(1943年)末からは、本格的に反攻に転じたのである。その機先を制しようと、昭和19年(1944年)3月、日本軍が展開したのが悪名高い、かのインパール作戦である。兵站を無視し、その余りの無謀さゆえに日本の戦史上最悪の戦いと言われ、司令官・牟田口廉也中将に対する評価は、生還兵の多くが「畳の上で死んだなんて許せない」と憤慨したというのである。

 インパールは、インド北東部マ二プル州の中心都市であり、ビルマ・インド国境部の要地で、イギリス軍の反攻拠点であった。この作戦には、インド国民軍独立運動を刺激するという思惑もあったようである。

 ともかく、この実行の最大の難関は、川幅1,000㍍のチンウウィン川の渡河であり、加えて、標高2,000㍍級のアラカン山脈を踏破するという難行が伴うことであった。

 さらなる問題は、作戦が長期化した場合、前線部隊への補給をどうするかあった。

 当初牟田口の案はあまりにも無謀とされたのだが、敗北続きの戦局打開に、一抹の望みをかけたのだろうか。

 かくして、退却路に横たわる兵士の、膨大な数の遺体から「白骨街道」と異名される、悲惨なものになったのである。。

 指揮官のあまりの熱気にほだされて、上官が作戦を許可したという、科学的、戦略的判断というよりは、きわめて情緒的判断であったようである。

 一方、12月8日の開戦予定日に向けて準備が本格化する中、大本営ビルマ侵攻を考えていなかったされ、個々の作戦と全体計画との整合性が、誠に危ういのである。

 このビルマは、植民地計画を進めるイギリスとの間で、3度にわたる戦争を経て、イギリスの植民地になるのである。

①第一次イギリス=ビルマ戦争ー1824年(文政7年)~1826年(文政9年)

②第二次イギリス=ビルマ戦争ー1851年(嘉永4年)=下ビルマ一帯を占領

③第三次イギリス=ビルマ戦争ー1885年(明治18年)=ビルマはイギリス植民地に

こうして、ビルマは輸出用の米の生産地帯とされたのである。

 他国の富を漁る帝国主義国家と、非植民地国との明暗の対比をどう解すればよいのだろうか?

 他方、日本軍もまた、自らの補給ルート確保に向けて、タイ、ビルマ間に、山脈を越える全長およそ400㌔にもおよぶ鉄道を計画、いわゆる「泰緬鉄道」である。その作業員として、捕虜62,000人、募集して集めたタイ人数万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、蘭印人4万人を参加させ、雨期の間も休みなく強引に工事を進めたというのである。現場はコレラが流行し、およそ半数の人達が亡くなるという凄惨なものであったという。

 日本の軍政下で昭和18年(1943年)、東条内閣は大東亜共栄圏構想の一端として、ビルマの独立を認めたのだが、アウンサンらは国家主権のない名目上の独立に反発して、反ファシスト人民自由連盟を結成して、昭和20年(1945年)3月から抗日武装闘争を開始したのである。

 その後のビルマは、昭和28年(1948年)独立を達成するのである。

 そして、ビルマ(現ミャンマー)は、今また不安定な政情の中にある。