ードイツ近世史に見る膨張主義と日本ー
日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。「日独伊三国同盟」締結の暴挙ー
先ずは、ドイツの近世史を見てみよう。
1814年(文化11年)ー1870年(明治3年)の「ウィーン体制」である。
ナポレオン・ボナパルトの敗北の後、ゥィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成された。これによって、ドイツではオーストリアを盟主とするドイツ連邦が結成されたのである。ウィーン体制下で保守的な政治体制が続くなか、ドイツでも産業革命が急速に進展、ブルジョアが経済活動の拡大を望み、他方、知識人達によって、ドイツ人の一体化が求められるようになっていくのである。そうして、1848年(嘉永元年)革命が実行されるのである。
その次代を担うのが鉄血宰相・オットー・フォン・ビスマルクである。
皇帝ヴィルヘルム1世の下で、ビスマルクには強大な権限が与えられて、半ば独裁的な政治が行われたという。
「ビスマルク体制」の外交は、
①ヨーロッパのどのような領土の拡張も断念する
②ドイツのあらゆる膨張主義的運動、とりわけ大ドイツ主義的運動を抑圧する
③オーストリアとバルト沿岸にいるドイツ人を併合しようという願望を持たない
④他のヨーロッパ列強の植民地政策に不参加を厳守
⑤ヨーロッパ内の戦争を積極的に阻止する。
などに要約されるという。
ビスマルク外交の特徴は、このように現実的かつ抑制的であった。
かくして、列強対立のバランスの上に、ヨーロッパの安全保障は図られたのだが、それを支えた複雑な軍事秘密同盟の手法が、後に世界大戦の要因になったというのである
そして、時代は1888年(明治22年)ー1918年(大正7年)、「ヴィルヘルム2世」の施政へと移ってゆく。
ヴィルヘルム2世は、ビスマルクを解任。勢力均衡のビスマルク体制を転換して、ドイツの膨張主義を主導するようになり、1914年(大正7年)第一次世界大戦を引き起こして敗戦、自らはベルギーへ亡命するのである。
さらに、時代は「ヴァイマル共和国」へ、1919年(大正8年)ー1932年(昭和7年)
である。この時期は、君主制から共和制に移行。ドイツ民主党のフリードリヒ・エーベルトが大統領になるのである。ヴェルサイユ条約による多額の賠償金の支払いなどで混乱。くわえて、1930年(昭和5年)の世界恐慌によって、ドイツ経済が壊滅的な打撃を被り、政界も混乱。こうした中、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の擡頭である。
「ナチス・ドイツ=ヒトラー」1933年(昭和8年)ー1945年(昭和20年)
以下、ヒトラーの年表を見る。
3月、全権委任法を制定。ナチ党による一党独裁体制が確立。
1934年(昭和9年)8月、ヒンデンブルグ大統領死去、ヒトラー総統へ。
1935年(昭和10年) 徴兵制導入、軍をドイツ国防軍に改組。
9月 「ニュルンベルク法」を制定して人種政策推進。非アーリア
1936年(昭和11年) 「日独防共協定」〈対ソ連〉を締結。
1939年(昭和14年)9月、ドイツ軍ポーランド侵攻、第二次世界大戦始まる。
1940年(昭和15年)春、 デンマーク、ノルウエーを占領。
5月、ベネルクス三国を制圧。フランスを制圧。イギリスを除く西
ヨーロッパを征服。イギリス本土上陸作戦の前哨戦は敗北
〈9月27日、「日独伊三国同盟」締結〉
1941年(昭和16年)6月、不可侵条約を破棄して、ソ連に侵攻、打倒ソ連は失敗。
ドイツ軍は消耗。
1943年(昭和18年)2月、スターリングラード攻防戦で、致命的な大敗。
1944年(昭和19年)6月、連合軍北部ノルマンディー上陸、ドイツ軍敗色濃厚。
12月、西部戦線で一大攻勢に出たが失敗。〈バルジの戦い〉
1945年(昭和20年)4月、ソ連軍、ベルリン総攻撃。
4月30日、総統官邸地下壕で、ヒトラー自殺。
5月8日、 ドイツ軍、正式に無条件降伏〈欧州戦線における終戦〉
昭和15年(1940年)の夏、ドイツは連日爆撃を加えて、イギリスを屈服させようとしていたのである。残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先駆けてレーダーの開発と配備を成し遂げ、それを踏まえて、空軍によるしぶとい守戦を展開したのである。ドイツは秋口に、イギリス本土上空の決戦に敗れたのである。昭和15年(1940年)6月にドイツの栄光はなりをひそめ、夏を境に、転落の局面を向かえていたというのである。
この9月初めには、米ルーズベルト政権は、現地へ派遣された調査団の報告から、ドイツの凋落の始まりをすでに認識していたというのである。
一方、日本陸軍は、多くの軍人をヨーロッパに駐在させていたというのだが、ドイツの行き詰まりを把握できず、必ず勝つ、すぐに勝つ、気前がいいなどの”親独主義”にからめとられて、ドイツが転落を開始した瞬間にも、ドイツの対英勝利を疑わなかったという。こうした最悪の状態の中で、9月27日、「日独伊三国同盟」は結ばれたのである。「滅びゆく者との抱擁」とも「死の接吻」とも呼ばれるゆえんである。
はたして、同盟締結の席上、どのような会話を交わしたのだろうか。