戦史と世相ーシリーズ④ 「立ち上がれ小国民」昭和16年(1941年)~昭和18年(1943年)

小国民」とは、戦時中に使われた、小学生に向けて使われた呼び名。小さくとも”国民”なんだぞ、頑張れという意味だ。一方、「少国民」という言葉は、銃後に位置し、年少の皇国民という意味だそうである。

 さて、昭和16年(1941年)1月8日、ときの陸軍大臣東条英機から「戦陣訓」が発令される。軍人としてとるべき行動規範とされ、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節がとりわけ有名で、玉砕や自決など軍人や民間人の死亡の一因ともくされている。

 日ソ間には、日ソ中立条約が締結される。相互不可侵や一方が第三国に軍事攻撃された際の中立を定めた全4条の本文と、満州国モンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた。

 第二次大戦に当初には、ポーランドを共に占領していたナチス・ドイツソビエト連邦が昭和16年(1941年)6月22日に突然、ドイツ国防軍ソ連に侵入、戦争状態になった。

 こうした中、昭和17年(1942年)初期には、ソ連、英国、米国は、ナチスドイツとその同盟国(昭和15年ー1940年日独伊三国同盟締結)を打ち破るため、軍事同盟を形成していたのである。米国の「武器貸与法」は、英国、ソ連を援助したのである。

 昭和16年(1941年)7月には、日本軍は、前年の北部仏印進駐に続いて、南部仏印に進駐し、これに対応した米国は、8月に対日石油全面的禁輸に踏み切り、この進駐が日米戦争の直接の契機になったのである。

 昭和16年(1941年)8月9日、ローズベルトとチャーチルが大西洋上で、英米首脳会談が行われ、戦後の国際協調について基本的な合意を交わしていたのである。

いわゆる「大西洋憲章」である。

 第二次大戦は、昭和14年(1939年)に始まっていたが、アメリカが参戦するのは、昭和16年(1941年)12月8日、日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まったときである。

 しかし、アメリカは、武器貸与法によってイギリスの対独戦争にすでに加担していたのである。

 ずっと早く、1930年代後半(昭和10年頃)には、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)のそれぞれ頭文字を取って、ABCD包囲網と呼ばれたのである。事実上の対日経済制裁に対する、日本側からの呼び方である。

 第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年)には、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦の間で、独ソ戦(あるいは東部戦線)が戦われている。