戦史ブログ「飢餓の戦場」

ー戦史の底流から、学び取るべきは何かー

ー仏領インドシナへの日本軍進駐ー

第二次世界大戦下、日本軍によって、昭和151940年)北部仏印進駐と昭和161941年)の南部仏印進駐が行われた。

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 フランス領インドシナへの日本軍の進駐のことである。とりわけ南部仏印進駐によって、日米関係に抜き差しならぬ決裂をもたらし、これによって、太平洋戦争が不可避となったのである。

 昭和151940年)9月、6月フランスがドイツに降伏したことを受けて、大本営政府連絡会議において「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」が決定され、米、英、仏などによる中国援助ルート、いわゆる援蒋ルートの遮断と東南アジア侵略のための前線基地の獲得を目指して開始されたのが、日本軍による「北部仏印進駐」である。

 これに対応してアメリカは926日、屑鉄の対日禁輸に踏み切り、イギリスも援蒋ビルマルートを再開する。

 いよいよもって、日中戦争解決の方途を見失った日本は、さらなる迷走に取り込まれててゆくのである。

 昭和161941年)7、「対英米戦を辞さず」として、ベトナム南部に進駐、いわゆる「南部仏印進駐」を決行したのである。725日、アメリカは在米日本の資産凍結令を公布、8月には対日石油全面禁輸に踏み切り、日米戦争は回避不能となったのである

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 主だった資源供給先であったアメリカやイギリスの輸出規制に遭い、日本は新たな資源の供給先を求めなければならなくなったのである。相手にオランダ領東インドを考えたが、昭和161941年)6月、オランダ領東インド政府との交渉は決裂、これらの動きがオランダを英米に接近させる結果となって、南部仏印進駐やむなしとなったのである。

 北部仏印進駐への反発が少なかったとして、南部仏印進駐を、米英の反発を招かないのではと見通しに甘さがあったようである。

 昭和121937年)の日中戦争開始以降、中華民国蒋介石政権には、英米が軍事援助をしていたわけであるが、そのための援蒋ルートのなかで、フランス領インドシナを経由するいわゆる「仏印ルート」は、4つの援蒋ルートの中で最大規模のものである。

 こうしたなか、昭和14年(1939年)11月24日、日本軍が仏印と中国の国境に近い南寧を攻略した。最大規模の援蒋ルートにからむ、この地の戦闘は、中国、英米、オランダ、インドシナ政府などが複雑に絡み合う中で、太平洋戦争開戦への確実な序章となってしまったのである。

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この地ベトナムの中部クアンナム省、トゥボン川の河口に古い港町がある。

中国人街を中心にした古い建築が残っていて、平成11年(1999年)に「ホイアンの町並み」としてユネスコ世界遺産に登録された「ホイアン市」である。

 16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が集結して国際貿易港として栄えた街である。1623年にはオランダ東インド会社の商館がおかれるなどの繁栄を見たが、江戸幕府鎖国によって、日本人の往来が途絶えたところである。

 鎖国までは親しい関係にあったホイアンには、古くから伝わる「カオウラ」と呼ばれる緬があり、うどんのような触感だという。日本人がホイアンの人たちに伝えたといわれているそうである。

 このホイアン中心市街地には、「日本橋」があって、この橋を中心に、かつては日本人街と中国人街が栄えていたのだそうである。現在はホイアンを象徴する観光スポットになっている。

 交流の歴史と悲しみの連鎖と、心の揺れる歴史の跡である。

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  このホイアンで「会安(ホイアン)救国会」をつくって活動していた中国系住民が反日を理由に、日本軍によって逮捕・殺害された悲しい記憶が残されている。ホイアン事件」と呼ばれるものである。

 町の郊外にその記念碑と墓があり、この墓に年齢や出身地が記されているという。

(了)

 

 

 

 

 

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