無視された「総力戦研究所」の研究成果、そして開戦

[昭和16年(1941)8月27日、首相官邸大広間で、総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣(窪田角一内閣)が研究成果発表のため、第三次近衛内閣と対峙したのである. 午前9時に始まった〈窪田内閣〉の〈閣議報告〉は、午後6時まで長時間に及んだとい…

おススメ!2大名著「現代語訳『暗黒日記』」、『戦争の大問題』

首記の図書はそれぞれ、伊藤忠商事で社長、会長を務められ、2010年に民間出身で初の中国大使を務められた丹羽宇一郎氏の著作である。 「現代語訳『暗黒日記』」は、「東洋経済新報」や「中央公論」などで反軍国主義を貫いた外交・政治評論家でジャーナリスト…

アジア・太平洋戦争ー昭和20年(1945年) 、いよいよ終戦の年である。

完膚なきまでに叩きのめされて、この年、12年に及んだ日中戦争、そして太平洋戦争が終結する、無条件降伏である。 〈104〉1月9日、 連合軍、ルソン島のリンガエン湾に上陸 〈105〉2月3日、 連合軍、マニラ市街に突入 〈106〉2月19日、 米軍、硫黄島に上陸 〈…

アジア・太平洋戦争ー昭和19年(1944年)1月~11月24日を見る

この年は、大本営インパール作戦の認可で明けるー理不尽なあの「白骨街道」を生んだ作戦である。 〈80〉1月7日、 大本営、インパール作戦を認可 〈81〉1月24日、 大本営、大陸打通作戦(中国大陸ー1号作戦) 〈82〉2月6日、 クェゼリンの守備隊玉砕 〈83〉2…

太平洋戦争ー昭和18年(1943年)1月~11月25日を見る

昭和18年(1943年)は、ブナ守備隊、続いてギルワ守備隊の全滅で明ける(東部ニューギニア)。 〈59〉 1月2日、 ブナ守備隊、続いてギルワ守備隊(東部ニューギニア)全滅。 〈60〉 1月29日、 レンネル島沖海戦 〈61〉 2月2日、 ガダルカナル島から撤退開始 〈62〉…

太平洋戦争ー昭和17年(1942年)6月8日~昭和17年年末まで

太平洋戦争昭和17年(1942年)後半をなぞってみる。 ㊳昭和17年(1942年) 6月8日、 陸軍北海支隊ーアッッ島占領、海軍陸戦隊ーキスカ島占領 ㊴ 〃 7月6日、 海軍飛行場設営隊、ガダルカナル島に上陸 ㊵ 〃 7月29日、 南海支隊、東部ニューギニアのココダを占領 …

太平洋戦争ー昭和16年(1941年)12月10日⑦マキン・タラワ島占領~昭和17年(1942年)6月6日㊲ミッドウエー海戦まで

開戦からちょうど半年180日のミッドウエー海戦までをざっと概観する。 昭和16年(1941年) ⑦12月10日マキン・タラワ島占領 ⑧12月10日マレー沖海戦ー飛行機が単独で戦艦を沈めた最初の海戦 ⑨12月20日ミンダナオ島ダバオ占領 ⑩12月22日ルソン島リンガエン湾に上…

昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争開戦同日に⑥グアム島空襲を実施ー

昭和16年(1941年)10月末、日本の陸海軍は、対米英蘭作戦を決定して、海軍のハワイ空襲と合せて、フィリピン、マレー半島を、そうして資源地確保をめざして、蘭印の攻略を企図。これらの主作戦と併行して企図された、グアム、ウェークの攻略、ビス…

航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した"世界最初の海戦"ー(5)「マレー沖海戦」である

【酵素ページ】追加 昭和16年(1941年)12月10日、日本海軍の中型攻撃機84機が、イギリス東洋艦隊の新鋭戦艦「プリンス・オブ・ゥェールズ」と高速戦艦「レパルス」を撃沈した。 日本軍が進駐していた南部仏印(南部フランス領インドシナ)のサ…

太平洋戦争の勃発と同時に、フィリピンの米軍と戦闘開始(4)フィリピンの戦い

昭和16年(1941年)12月7日、午後9時35分、日本軍第一天候偵察隊が、そして午後11時30分、第二天候偵察隊がフィリピン上空を飛んだ。 翌昭和16年(1941年)12月8日0時15分、偵察を察知した米軍は、イバ、クラークに全機15分の…

真珠湾攻撃と同時刻に、イギリス軍機に航空第一撃(3)香港の戦い

真珠湾攻撃と同時刻、昭和16年(1941年)12月8日朝、第23飛行隊は、香港・九龍半島北東端に位置するイギリス軍の航空基地・啓徳飛行場のイギリス軍機に対して航空第一撃を加えたのである。 ことは、昭和12年(1937年)7月7日、日中全面戦…

(2)真珠湾奇襲攻撃ー「トラ トラ トラ」、ヒッカム飛行場に爆弾投下

昭和16年(1941年)12月8日午前3時(現地時間7日午前8時) 第一波の攻撃隊は、淵田美津雄中佐率いる183機。「トラ トラ トラ」(「全機突撃せよ」)の電文発信で、ついに”命令”は発せられたのである。真珠湾に対する日本軍の空襲が開始された…

マレー半島コタバル上陸、太平洋戦争開始ー(1) マレー半島作戦

昭和16年(1941年)12月8日、このイギリス領マレー方面の作戦が、いわゆる太戦争戦争において、すべての作戦に先駆けて行われた南方作戦の一つであり、事実上この攻撃開始によって、太平洋戦争が始まるのである。>8日午前2時30分第18師団侘美…

昭和初期の日本が歩んだ「敗戦」への道、迷走を繰り返した大日本帝国が志向したものとは (2021.6.3追記)

先ずは、齋藤健著「転落の歴史に何を見るか」から紐解いていこうと思う。 ちくま文庫 明治38年(1905年)の日露戦争・奉天の会戦から昭和14年(1939年)のノモンハン事件までの34年の間に、何が起っていたかである。 軍勢は、この間に、ジェネラリ…

なぜこんなにも違う、日米両軍の視点の構え方ー

情報の入手が甘い、おおむね楽観主義、科学的整合性の欠如など、日本軍の思考法にはいささか危うさが漂うー 日米両軍の戦争に対する構え方には、どのような違いがあったろうか。 いくつかの視点から、比較を試みてみようと思う。 ① ゴールーどう着地させるか…

戦争事始ーなぜ、それは「満州」なのかー

そもそも、満州とはどんな所なのか?”万里の長城”の北側に位置し、西にモンゴル(蒙古)、北はロシア(旧ソ連)、東を朝鮮半島と接している ここには、日本の3倍以上という広大な領土が広がっていた。 ところで、日本軍の満州侵攻には、無論、地政学的な要素が…

ビルマの戦い、そして「インパール」の悲劇へ

日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍✕イギリス軍・アメリカ軍・国民革命軍の戦い、「ビルマの戦い」である。 昭和16年(1941年)アジア・太平洋戦争の開始直後から、昭和20年(1945年)の終戦直前まで続いた戦いである。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐる…

ードイツ近世史に見る膨張主義と日本ー

日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。「日独伊三国同盟」締結の暴挙ー 先ずは、ドイツの近世史を見てみよう。 1814年(文化11年)ー1870年(明治3年)の「ウィーン体制」である。 ナポレオン・ボナパルトの敗…

ー米軍の本格反攻開始、ガダルカナル戦で大敗ー

日本から6,000㌔の距離にある南太平洋・ソロモン諸島の激戦の地「ガダルカナル島」である。 久しぶりに太平洋戦争画集を眺めていた。 昭和17年(1942年)9月15日のことである。ヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗した、川口支隊の兵士達の遺体が無残な姿をみ…

ー二大「戦跡」に見る太平洋戦争ー

伊江島は東洋一と言われた飛行場が建設されたため、米軍の主要な攻撃目標とされたのである。 沖縄伊江島である。昭和20年(1945年)4月16日、米軍が上陸、すぐさま飛行場は占領されたのである。この伊江島の戦い(~21日)では、一般住民およそ1,5…

ー二大「戦跡」に見る太平洋戦争ー

昭和19年(1944年)7月のサイパン陥落の後、本土爆撃と本土決戦が、いよいよ現実味をおびてくる。 ことは、「政府中枢機能移転」の問題である。そもそも太平洋戦争の以前から、広大な関東平野の端に位置し、海からも近い首都「東京」は著しく防衛機能が脆弱で…

ー敵を知らず、己を知らずー

流れにまかせた”百戦の暴走”、それがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今次大戦においては、勝利への過…

原点回帰ー日清戦争、満州国、盧溝橋そして日中全面戦争へー

近代の日本は、「日中15年戦争」と呼ばれるように、常に中国大陸とともにあった。 まさにその中国との関係を原因として、昭和16年(1941年)太平洋戦争に突入するのである。かくして、陸軍は中国大陸、海軍は太平洋戦争という構図になるのである。双方は国家…

ー日露戦争から大正政変へー

歴史は、遡ることによって、あるべき現在と未来とを示唆してくれるものである。 日露戦争の前段には、日清戦争があったのである。明治27年(1894年)7月25日から明治28年(1895年)4月17日にわたった日本と清国との朝鮮半島をめぐる戦いである。 この戦争に勝利…

ー日本と台湾の五十年ー

日清戦争終了のあと、下関条約に基づいて、清朝(当時の中国)から「台湾」が日本に割譲された。 明治28年(1895年)4月17日のことであった。爾来、日本のアジア・太平洋戦争の敗戦によって終焉を向かえる昭和20年(1945年)10月25日までの50年間、台湾は日本の統…

ー仏領インドシナへの日本軍進駐ー

第二次世界大戦下、日本軍によって、昭和15年(1940年)北部仏印進駐と翌昭和16年(1941年)の南部仏印進駐が行われた。 フランス領インドシナへの日本軍の進駐のことである。とりわけ南部仏印進駐によって、日米関係に抜き差しならぬ決裂をもたらし、これに…

ー第二次上海事変、そして支那事変へー

日本軍の北平(北京)攻撃開始が、1937年(昭和12年)7月下旬のことである。 29日には、日本軍が北平を占領、10月12日、北平を北京と改名、12月14日には中華民国臨時政府が誕生する。1945年(昭和20年)8月15日の日本敗戦まで占領…

ービルマのインパール、マリアナのサイパン島ー

昭和19年(1944年)、3月に大東亜戦争のビルマ戦線において、帝国陸軍の「インパール作戦」が開始された。 インパール駐留の英軍による中国・蒋介石軍を支援するいわゆる”援蒋ルート”遮断を目的として、7月初旬まで続けられた。後年、その無謀な戦いぶ…

ー満州開拓民の悲哀ー

昭和20年(1945年)ごろの満州国には、およそ155万人の日本人が暮らしていたという。 おおかたは、鉄道沿線の都市部で行政機関の関係者や商売をしている人達で、近代的な生活をしていたそうである。しかし、その一方では北部の奥地に移り住んだ「開拓…

ーそもそも「満州」とはー

そもそも満州国があった中国の東北部は、古くから、支配民族の交代が頻繁に行われ、一支配が長期に渡ることがなかったという。 やがて満州人による清王朝がここに軍政を敷いて、東部を満州人、西部をモンゴル人、南部を漢人の居住区と定めて移住を禁止した。…