ー満州の国づくり、「五族協和」「王道楽土」ー

昭和10年(1035年)当時の満州国には、3500万人弱の人々が住んでいたらしい。 その人口内訳は、漢人が7割強、満州人が16%強、朝鮮人が2%強、日本人は0.4%程度のようである。モンゴル人は不明のようである。その満州で国づくりの理想とされ…

ー一般の人達を見捨てた「関東軍」ー

アジア・太平洋戦争末期、関東軍は、満州国にいた日系成人男性15万人を根こそぎ戦場にかりたてた。 そうして、女性や子ども、老人だけになったところにソ連軍が突如侵攻、長く抑圧されていた漢人の怒りも爆発して、日本人は略奪や暴行の餌食となって、あま…

ー敵を知らず、おのれを知らずー

流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今次大戦においては、勝利への過…

ー敵を知らず、おのれを知らずー

流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過…

ー敵を知らず、おのれを知らずー

流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過…

ー敵を知らず、おのれを知らずー

流れにまかせた”百戦の暴走”、これがアジア・太平洋戦争の実相ではなかったか? 「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」のはずである。 日清戦争、日露戦争、そして欧州大戦(第一次世界大戦)と戦果にあやかった日本は、今時大戦においては、勝利への過…

ー蜂の巣になった本土ー

島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋…

ー蜂の巣になった本土ー

島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋…

ー蜂の巣になった本土ー

島国日本の戦場は、遥か海の彼方であった。それが昭和19年(1944年)11月から、本土に移ったのである。アメリカが日本向けに開発した大型戦略重爆撃機B29の登場によるのである。 「超空の要塞」と呼ばれたこのB29は、米軍が前線基地にした太平洋…

ー見抜けなかった「ドイツの凋落」

日独に共通して見て取れるのは、敵国に対する状況認識の欠落のようである。 昭和15年(1940年)の夏、ドイツはイギリス本土へ連日爆撃を加えて、屈服させようとしていた。 残念ながら、ドイツの意のままにはならなかったのである。当時のイギリスは、世界に先…

ーヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗ー

久しぶりに太平洋戦争の画集を眺めている。 日本から6,000キロの距離にある南太平洋・ソロモン諸島の激戦の地「ガダルカナル島」である。 昭和17年(1942年)9月15日のことである。ヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗した、川口支隊の兵士達の遺体が無残な姿をみ…

ー名将が見当たらないー

とある出版社の、ある日の風景である。編集長の指示はこうである。 盧溝橋から長崎まで8年に亘ったアジア・太平洋戦争である。戦史に名を刻まれるとしたら、その陸軍大将は誰だろうか? 少ないといっても一人ぐらいはいるだろう。これが編集長氏の御説である…

父上様、母上様「只今出撃致します」

長らくお世話になりました。遺髪は行李の中へ入れました。 では皆々様お元気で。 「英霊の言葉」である。 すこし時間をおいて、本文を書いていきます。

愚か者の画策が屍の山を築いた、それが「戦争」である。

日本の戦史、それは東亜と太平洋の漂流であった。 少しずつ本文を書き込んでいきます。

「日本国内の戦争遺跡」を訪ねてー東京続編

東京都東大和市である。 「旧日立航空機立川工場変電所」である。昭和13年(1938年)から平成5年(1993年)まで使われた変電所である。 東京瓦斯電気工業株式会社として作られ、翌年日立製作所と合併して、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>の変…

「日本国内の戦争遺跡」を訪ねてー岩手、東京

さあ、今日は岩手県に足を延ばしますね。 1.【騎兵第3旅団】ー岩手県盛岡市 明治42年(1909年)編成され、第8、第23、第24騎兵連隊で構成された。第8騎兵連帯は弘前、そして第23と代24騎兵連隊と旅団司令部は盛岡に駐屯した。 昭和3年(1928年)…

「日本国内の戦争遺跡」を訪ねてーNo.2青森編

さて、続いては「青森県」である。 1、【竜飛監視哨】(哨=みはり)ー青森県東津軽郡外ヶ浜町 何といってもここの要衝は、津軽海峡である。日本海と太平洋を結ぶ国際海峡であり軍事上の重要なポイントである。ここはロシアの艦船などが通航することもあっ…

「日本国内の戦争遺跡」を訪ねてーN0.1北海道編②

引き続き北海道の戦跡を訪ねる。 4、【旭川第7師団】(だいしちしだん)-北海道旭川 第7師団は、北辺の守りを担当する重要な師団である。 明治32年(1899ねん)敷地を買収して、6月から兵舎その他の工事が始められた。明治37年(1904年)日露戦争に出征し…

戦争の記憶を次世代へー訪問「日本国内の戦争遺跡」No.1北海道編①

今回は日本国内の戦争の傷跡を辿ってみよう。戦跡をなぞる旅である。明治初期からアジア太平洋戦争終結まで、日本が関わった軍需工場や戦災地、軍事施設などである。1970年代から、戦争体験や戦争遺跡の掘り起こしが始まったのだという。 平成7年(19…

後世に伝えたいー「戦争の悲劇」③

故郷を離れ、否、故郷を追われというべきかも知れない。無論、家族との離別でもある。ところで、あらためて世界地図を広げてみる。故郷を追われた兵士たちの辿ったアジア太平洋戦争の戦場の跡である。マレー半島コタバル、真珠湾攻撃の舞台・ハワイオアフ島…

後世に伝えたいー痛ましい「戦争の悲劇」②

こんな”逸話””から始めてみたい。 昭和2年(1927年)ことである。悪化していた日米関係の改善を目論んだ宣教師シドニー・ルイス・ギューリック博士と実業家の渋沢栄一が青い目の人形、およそ1万2700体を全国の幼稚園や小学校に配ったという。「平…

後世に伝えたいー痛ましい「戦争の悲劇」①

四方を海に囲まれた国・日本の戦場は、押しなべて海の彼方であったが、太平洋戦争の末期、昭和19年(1944年)11月からは、日本本土に移ったのである。10月25日に神風特攻隊が初出撃、11月23日ペリリュー島の日本軍守備隊が玉砕、11月24…

アジア太平洋の戦跡ー「日中戦争」編

柳条湖事件、満州国、日中全面戦争と、近代の日本は、「日中15年戦争」と呼ばれるように、常に中国大陸とともにあった。まさにその中国との関係を原因として、昭和16年(1941年)太平洋戦争に突入するのである。 かくして、陸軍は中国大陸、海軍は太平洋戦…

アジア太平洋の戦跡ー「韓国・済州島」編

日本では、昭和6年(1931年)9月18日の満州事変から日中戦争終了までを「15年戦争」と呼ぶ。とりわけ昭和7年(1937年)7月7日、中国北京近郊で起きた盧溝橋事件を端緒に中国北部で始まった、いわゆる日中戦争は、中国中部へ拡大、さらに日中全面戦争へと拡大…

アジア太平洋の戦跡ー「マリアナ諸島」「パラオ諸島」編

昭和17年(1942年)8月、連合軍の進攻は、南太平洋・ガダルカナル島への上陸で反攻を開始、日本軍構築の飛行場を奪い取るのである。 昭和19年(1944年)2月には、連合軍はマーシャル諸島を攻略。 ついで、いよいよマリアナ諸島、パラオ諸島へ歩を進めてくる…

アジア太平洋の戦跡ー「ソロモン諸島」編

ソロモン諸島の戦いは、二つの意味で重要な意義を持っている。 ① アメリカ軍が反転攻勢を 強めることになったこと。 ② 日本軍にとって劣勢への大きなターニングポイントになったこと。 この戦いに先立つミッドウエー海戦において、日本軍は主力空母4隻を失…

アジア太平洋の戦跡ー「ソロモン諸島」編

アジア太平洋戦争の戦跡ー「パプア・ニューギニア」編

20万名の日本軍将兵のうち、生還者はわずか2万名だったという。この悲惨な戦いが、昭和17年(1942年)3月8日、日本軍が東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸占領して始まった「ニューギニアの戦い」である。 日本軍に追われてオーストラリアに拠点を置…

アジア太平洋戦争の戦跡ー「フィリピン」編

フィリピンは2度にわたって激戦の舞台となった。 それだけに被害も大きく、東南アジアで最悪といわれる。 分かりやすくするために、ここでフィリピンの略史に触れてみよう。 1521年(室町時代)マゼランのフィリピン到着 1571年(織田信長)スペインの統治…