後世に伝えたいー「戦争の悲劇」③


故郷を離れ、否、故郷を追われというべきかも知れない。無論、家族との離別でもある。ところで、あらためて世界地図を広げてみる。故郷を追われた兵士たちの辿ったアジア太平洋戦争の戦場の跡である。マレー半島コタバル、真珠湾攻撃の舞台・ハワイオアフ島、そしてシンガポールとおよそ70ヵ所の島嶼をなぞってみる。他方、中国大陸では満州山東、南京、上海などとおよそ40ヵ所をなぞってみる。果てしない泥沼である。

 何はともあれ、再び生まれ来ることがあれば、「戦争のない時代」にと、ひたすらなる願いである。

 さてそれぞれの兵士たちの胸中やいかに・・・。察するに余りあるのは夫や息子たちを戦場へ送り出した、妻や母親たちの胸中にも計り知れない痛みがあったろう。

兵士たちに贈られたこんな文化があった。

【7】千人針

 召集令状が届く、夫や息子が戦場へと旅立つ、妻や母親は彼らの無事を祈って、”千人針”を縫ってもらうために街頭に立ったという。千人の女性にひとり一針ずつ赤い糸で縫い目をつけ、千個の糸玉を結んだのだという。出征兵士に贈られ、千里を走り、千里を帰るという願いが込められて、「虎」の図柄が多かったというのである。

 

「死線(4銭)を越える」「苦戦(9銭)を越える」と縁起をかついで、5銭硬貨や10銭硬貨を縫い付けたりもしたという。

【8】中学生までもが戦った沖縄の戦闘

 いわゆる沖縄戦は、昭和20年(1945年)3月から90日間にもおよんだという。米軍の上陸、悲惨に悲惨を重ねた地上戦、一般市民の死者は10万人ともいわれている。そうした中、いまだ幼げな中学生や教師養成機関・師範学校の生徒たちまでが銃をとって戦い、自ら爆雷を背負って、米軍戦車に特攻攻撃を仕掛けて射殺された少年兵もいたという。このような戦いのどこに本義があったのだろうか。

 一方で、ここ沖縄には、戦時中、生活の場と同時に野戦病院などにも使われた「ガマ」と呼ばれる自然の洞窟がたくさんあるのだが、ここが米軍によって、ガス弾を投げ込まれたり、自決を選んだ人たちの場ともなって、悲劇の象徴になったのである。
【9】混乱の「戦後」

 戦時中、両親を亡くしたり、家族がバラバラになって行方不明になって、取り残された子供たちは「戦災孤児」と呼ばれた。12万人を超えたという。悲惨な世相の中、終戦直後は食糧確保が思うに任せず、苦しい生活が続いたのである。

 

 一方、焼け跡には「闇市(やみいち)」が軒を連ね、不足していた生活物資が高値で売り買いされたという。また、皇居のお濠の堤は野菜畑になったという。

(了)

 

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