戦争の記憶を次世代へー訪問「日本国内の戦争遺跡」No.1北海道編①
今回は日本国内の戦争の傷跡を辿ってみよう。戦跡をなぞる旅である。明治初期からアジア太平洋戦争終結まで、日本が関わった軍需工場や戦災地、軍事施設などである。1970年代から、戦争体験や戦争遺跡の掘り起こしが始まったのだという。
平成7年(1995年)に文化財指定基準が拡大されて、南風原(はえばる)陸軍病院跡や日立航空機立川工場変電所などが文化財に指定されたのである。
そして翌、平成8年(1996年)には、原爆ドームが世界遺産になった。なにしおう世界の平和運動の象徴である。
他方、戦争に関する軍の公文書は、重要資料であるにも関わらず、戦後そのほとんどが焼却されたのである。
それでは北海道の戦跡から見ていこう。
明治8年(1875年)、樺太・千島交換条約によって宗谷周辺は国境なったので
ある。帝政ロシアの樺太進攻、これに対応するため旧帝国海軍が明治35年(19
02年)に建造、国境の防備として重要な海上監視の任務を課せられたのである。
当時最強と謳われたバルチック艦隊の動きを機敏に察知する必要性があったのだ。
大正9年(1920年)、沿海州で勃発した尼港事件では無線通信基地として機能
したということである。ちなみに望楼とは、遠くを見渡すやぐらのことである。
※ 尼港事件=ロシア革命後の大正9年(1920年)3月~5月、アムール川河口の港町ニコライエフスク(尼港)における、シベリア出兵中の日本軍隊とソビエト・パルチザンとの紛争事件。
昭和16年(1941年)、日本陸軍航空隊計根別第4飛行場として開港された。現在航空自衛隊の施設として使用されている滑走路が、この第4飛行場である。戦前の計根別飛行場には第1から第5までの飛行場があって、総称して計根別飛行場と呼ばれたが、第4は計根別地区とは違って西春別地区にあるという。現在の別海フライトパークには誘導路の跡が残っているという。
トーチカとは、機関銃や自動火器、それに小型高性能火砲などの登場で、小規模の敵部隊の攻撃に対応したに鉄筋コンクリート製の防御陣地である。
旧日本軍がつくった小型のトーチカが根室半島の沿岸にある。
根室のトーチカ群は、北太平洋・アリューシャン列島方面からのアメリカ軍の進攻に備えたもので、昭和18年(1943年)の末頃から陸軍によって整備が進められた。戦況は厳しく、ヒト・モノ・カネの困窮する中で、元老・大山巌の息子の大山柏少佐が警備大隊長として指揮をとり、私財を投じて構築したものであるという。
(了)
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