ーヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗ー

久しぶりに太平洋戦争の画集を眺めている。

日本から6,000キロの距離にある南太平洋・ソロモン諸島の激戦の地「ガダルカナル島」である。

昭和17年(1942年)9月15日のことである。ヘンダーソン飛行場の攻撃に失敗した、川口支隊の兵士達の遺体が無残な姿をみせている。

身に纏う装備の詳細は知れないが、一人は腰に大きなスコップを差している。

 昭和16年(1941年)12月8日、マレー半島コタバル上陸、その1時間50分後の、ハワイ・オアフ島真珠湾攻撃とによって、太平洋戦争が始まるのである。 

 その後の日本軍は、グアム、フィリッピン、香港、シンガポール、ラングーンと快進撃を続け、南方を制圧していくのである。こうした中、昭和17年(1942年)4月18日、米機動部隊から、ジェームズ・ドゥーリットル中佐指揮下のドゥーリットル隊が発進、Bー25を空母に搭載して、東京、川崎、横須賀など、「日本本土初空襲」が敢行されたのである。この事態を受け、山本五十六連合艦隊司令長官の意向を入れ、中部太平洋の米軍基地・ミッドゥェー島の攻撃、すなわち「ミッドウェー海戦」へ突入するのである。

 この海戦で空母4隻を失った日本軍は、ガダルカナル島へ飛行場を建設することになるのである。

マレー半島上陸、真珠湾攻撃ーその半年後ミッドウェー海戦その二ヶ月後ガダルカナル島開戦

 かくして昭和17年(1942年)8月、米軍がガダルカナル島上陸、それから半年にわたって、空海陸で激しい戦闘が繰り広げられたのである。

とりわけ地上部隊は、戦闘よりも大方の兵士がマラリアと飢えで死んでいったのである。制空・制海権を奪われ支援物資が途絶えて、ガダルカナルは餓島(飢餓の島)となったのである。戦死者のじつに3分の2にあたる一万五千人が病気・餓死者であったと言われている。

 ところで、私が眺めていた兵士の遺体は、アメリカに奪還されたヘンダーソン飛行場(もとは日本軍が建設した飛行場)の奪回に向けた戦場の無残な風景である。

 ともあれ、米軍の本格的な「反攻の開始」である。その後、戦線はニューギニアへと移ってゆくのであるが。

 ミッドウェー海戦の大敗、ガダルカナル戦の大敗によって、その後の太平洋戦争の帰趨は知れていたはずなのだが。

 ここまで、太平洋戦争開始からわずかに「8ヶ月強」である。戦争全体が3年8ヶ月と言うから、おおかたは、意味の無い消耗戦ということになる。

 しかも日中戦争は、「アジア・太平洋戦争」などと集約されて継続のままである。

 

ー「終戦のシナリオ」はついに幻のままであったー


とある出版社の、ある日の風景である。
編集長の指示はこうである。

 盧溝橋から長崎まで8年に亘ったアジア・太平洋戦争である。戦史に名を刻まれるとしたら、その陸軍大将は誰だろうか?

少ないといっても一人ぐらいはいるだろう。これが編集長氏の御説である。

 この8年の間には、大将21名、中将255名が名を列ねたという。よもや絶無はあるまいというのである。

 昭和16年11月、第16軍司令官に就任。翌年3月、オランダ領のインドネシアをわずか10日間の戦闘で攻略、その後は穏健な軍政を敷いた御仁である。日本陸軍屈指の名将と呼ばれた、陸軍大将・今村均その人である。

 オランダ軍に捕らえられていたスカルノを解放、「日本軍に協力するのも、しないのも自由です。あなたの政治信条に従ってよろしい」と申し渡したというのである。

 若き日の独立運動家、のちのスカルノ大統領である。

 そののち、昭和17年(1942年)11月、今村は第8方面軍司令官となって、ラバウルに赴任。ただちにガダルカナル将兵救出に取り組み、餓死寸前だった1万名の救出を成功させたのである。ほとんど”奇跡”であったという。

 

「名将」はいたのであるーその後の、とある出版社の編集作業は推して知るべしである。

 

 政治外交史家・北岡伸一氏によれば「悲惨な南太平洋戦線の一つの慰めは今村均の存在である」とのことである。

 今村は有能な軍人であった。一方、統治者としても、その寛大な施政で現地の人々からも敬愛されたそうである。

後年、スカルノ大統領の日本訪問の際、両名は、帝国ホテルにおいて劇的な再会を果たし、往事を忍び固い握手を交わすのである。