後世に伝えたいー痛ましい「戦争の悲劇」②

  こんな”逸話””から始めてみたい。

昭和2年(1927年)ことである。悪化していた日米関係の改善を目論んだ宣教師シドニー・ルイス・ギューリック博士と実業家の渋沢栄一青い目の人形、およそ1万2700体を全国の幼稚園や小学校に配ったという。「平和の親善使節」のはずであったが、やがて太平洋戦争が始まって、敵国アメリカの人形は、無残にも焼かれたり、叩き壊されたりしたそうである。

 つくづく為政者というものは国策を誤ってはならないものだと思うのである。なぜ戦争を引き込んだのか。

 やがて青い目の人形「ワーテラ・ヘズ」の話がもとになってアニメ映画「平和の使者・青い目の人形物語」が誕生するのである。

【5】戦地から家族への手紙

戦争中、家族との会話の手段は、手紙だけであった。

携帯電話やパソコンのある現代とは大違い、ましてや戦地からの郵便は軍事郵便に限られ、検閲を受けた郵便には本音が反映されたとは思いにくいのである。私は妻の叔父の、母親にあてた中国山東省からの軍事郵便を目にしたことがある。「母上様、お元気ですか・・・」と。軍事郵便の捺印があり、ハガキの紙質に戦時下の匂いを感じながら、若くして戦塵に散った叔父への哀切の情が沸々として、しばし落涙に咽んだものである。

【6】家族との離別ー臨時召集令状赤紙

戦前の日本には「徴兵令」という法律があった。国民に兵役につく義務を負わせた法律である。健康で満20歳に達した男子は、原則として全員が徴兵検査を受けたのである。召集令状を受け取ると軍隊の勤務につくために、一定の訓練を受けたあと、戦場へ向かったのである。それがさらに、戦争の激化に伴って、、さらにさらに多くの兵士の動員が必要になって”臨時召集令状””が発布されるようになるのである。令状は軍から警察へ、そして市町村役場から家庭に届けられたのである。淡い赤色の用紙に印刷された、いわゆる「赤紙」である。

職業軍人+志願兵の範囲が本来の軍隊組織だと思うのだが、いたずらな戦線の拡大が「国民総動員令」によって、多くの民草を兵役に駆り立てたのである。多くの兵士たちは、はたして正しく”大義”のために散っていったのだろうか。軍幹部は、彼らの大義のために、真に英霊の名を保証する構想を描いたか、英霊の名を保証するための軍という組織の運営に瑕疵は無かったのだろうか。  

 

(了)


       

 

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