アジア太平洋の戦跡ー「韓国・済州島」編

日本では、昭和6年(1931年)9月18日の満州事変から日中戦争終了までを「15年戦争」と呼ぶ。とりわけ昭和7年(1937年)7月7日、中国北京近郊で起きた盧溝橋事件を端緒に中国北部で始まった、いわゆる日中戦争は、中国中部へ拡大、さらに日中全面戦争へと拡大、泥沼の戦争を展開することになる。この間には、昭和16年(1941年)12月7日に太平洋戦争も始まるのである。

 これらに先立つ日本は、大正15年(昭和元年=1926年)軍事目的で始めた韓国・済州島済州市山地港の工事の過程で、済州島の軍事的効用に注目することになる。そうして、済州の西帰浦市(ソギポシ)大静邑(テジョンウプ)のアルトゥルに飛行場の建設を計画するのである。

 日本海軍は昭和12年(1937年)8月15日から、南京に対して当時最新鋭の96式陸上攻撃機を使って、長崎県大村航空基地から出撃していたが、南京、上海などへの爆撃拠点を済州島に移したのである。済州島は、日本南端の九州地方と中国南部をむすぶ位置にあり、日中韓3ヶ国の中央にある「戦略的要衝の地」であった。日本から中国南部に最も近い場所が済州島だったのである。ここに大村の海軍航空部隊が駐留するのである。

 

 太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)済州島は巨大な要塞だったのである。済州島の坑道陣地などの軍事施設は、日本でも類を見ないほど巨大であったという。ここからの南京空襲は36回におよび、300トンもの爆弾が投下されたという。他方、日本本土を防御するためここを防御基地として最後の決死抗戦へ向け準備を進め、済州島海岸をを囲む海岸陣地を構築したのである。満州関東軍など、各種兵器を装備した部隊を済州島全域に張り付け、およそ25万人ほどの人口の済州島に6万7千人ほどの日本軍が駐留したという。

 この地域には日中戦争で活用されたアルトゥル飛行場のほか、格納庫、高射砲陣地、坑道陣地、地下壕、通信施設などの太平洋戦争の戦跡のほか、済州4.3事件関係のソアルオルム予備検束追悼碑を見ることができるという。おおむね4、5時間で見て回れるらしい。現地へは済州市のバスターミナルから、随時運行のバスで向かうのだが、山伊水洞停留所で降りると松岳山海岸の絶壁に作られた日本海軍の特攻基地(坑道陣地)を見ることができるという。現下は絶壁崩落の危険があり、出入りは制御されているようである。ここからは、アルトゥル飛行場方面に歩いて行くと、自然豊かな風景と軍事施設の跡が見て回れるという。

(了)

 

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