戦史と世相ーシリーズ④ 「立ち上がれ小国民」昭和16年(1941年)~昭和18年(1943年)

昭和17年(1942年)4月18日には、アメリカ陸軍航空軍の爆撃機によって、日本本土が初めて空襲を受ける。指揮官ジミー・ドーリットル大佐にちなんで、ドーリットル空襲と呼ばれ、航空母艦ホーネットから発信され、太平洋戦争で初めて日本本土が攻撃された一連の空襲である。

B-25双発爆撃機ミッチェル16機は、東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸などに空襲を仕掛け、軍事的には大きな被害ではなかったというが、日本軍に与えた影響は極めて大きかったという。

太平洋戦争の開戦が、前年の12月8日であることを思えば、この時期の、この空襲から日本軍が学ぶべきことは、すこぶる多大であったと思うが、何ゆえに、むしろここから戦争が泥沼化してゆくのか、全く解せない。

そして、同年、昭和17年(1942年)6月5日~7日にかけて、「ミッドウェー海戦」が戦われたのである。日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機290機のすべてを破壊され、この敗北でこの作戦は中止されたのである。

ときの連合艦隊司令長官山本五十六大将は、この方針に疑問、独自の積極的な攻勢作戦を考えていたという。

 さて少し局面を変えるが、昭和5年(1930年)に開設されたのが、航空機搭乗員の大規模な養成を目指して、茨城県霞ケ浦飛行場である。ここで中学4年程度の学力のある者が甲種を受験、高等小学校卒業程度の学力のある者の中から、特に優秀と認められ選抜された乙種、それに下士官から選抜した丙種と区分けされ、教育機関3年、普通学と軍事学の基礎教育が施された。甲種、乙種はともに14~15歳であった。旧日本海軍の海軍飛行予科練習生である。俗に「予科練」と呼ばれるものである。海軍飛行予科練習生の制服には、海軍の象徴である”桜”と”錨”が描かれた七つのボタンがつけられ、「七つボタン」は、予科練の代名詞ともなったのである。

大空に舞え、少年飛行兵!憧れの七つボタンーその七つボタンのカッコよさに少年たちは惹かれたのかもしれない。

ここで、太平洋戦争末期には、特攻隊要員の訓練が行われたのである。

さて先ほどの連合艦隊司令長官山本五十六である。

大使館付武官などで延べ5年近くを米国に住んだ経験からか、「誰よりも開戦に反対した男」といわれ、日米の国力差を痛感していたという。対米国戦争について問われると、日本に勝算はないと答えたといわれている。また、その先見性から、日独伊三国軍事同盟にも異論を唱えていたともいわれる。

少年時代に米国宣教師の元で聖書の勉強をしたことがあるといわれ、キリスト教に造詣が深く、海軍兵学校時代には座右に聖書を置いていたそうである。一方で、いくつもの名言を残したことでも知られている。

「 やってみせ、言って聞かせて、

 させてみせ、ほめてやらねば、

 人は動かじ。

   話し合い、耳を傾け、承認し、

 任せてやらねば、人は育たず。

 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」

 

「どんなことでも部下の失敗の責任は

 長官にある。

 下手のところがあったら、

 もう一度使う。

 そうすれば必ず立派に

 なし遂げるだろう」 

その山本は、昭和18年(1943年)4月18日、前線視察の際に、暗号を解読して待ち受けていた米軍機に撃墜され、ブーゲンビル島上空で戦死するのである。海軍甲事件といわれる。 そして、6月5日、国葬が営まれたのである。皇族・華族でない平民の国葬は当時、山本だけだったそうである。

惜しむらくは、山本生前の口舌にじっくりと「耳」を傾けてほしかったと思うのである。

 Bohemian

 福岡県小竹町に「兵士・庶民の戦争資料館」とういうのがあるとのこと。まずは記事をじっくりと読んでみます。

1931年(昭和6年)に始まる、いわゆる15年戦争で兵士が使った脚絆や背嚢、千人針などおよそ300点が陳列されているという。軍服を触ってみたり、鉄帽をかぶったり、軍靴をはいてみたり、重さや硬さなどを実感できるのだという。実際にかぶってみると、随分と重いものらしい。

館長さんの武富慈海さん(71)が、父君の登巳男さんが、1979年(昭和54年)

に開設した資料館を、現在の小竹町に移してその遺志を継いでいるものらしい。

「人が本当の意味で成熟した『市民』になることとは、歴史とりわけ戦争の歴史を知ることだ」ということだろうか。

ー末端の兵士や庶民が命を落とすことを知る、それこそが戦争の実態を知ることである」とー