日本戦史の極点「ミッドウエー海戦」

 

あの真珠湾攻撃のあとも、日本軍は潜水艦によって対米通商破壊作戦を展開していたのだという。日本軍の潜水艦は、アメリカ西海岸付近の商船の攻撃に留まらず、沿岸の石油施設にも砲撃を加えていたという。これがアメリカ国民の士気低下を招き、これによる士気向上のために、アメリカ軍が日本本土への空襲を計画。昭和17年(1942年)4月18日アメリカ軍よって、東京をはじめとする日本各地への空襲が実行されたのである。いわゆるドーリットル空襲である。

昭和16年(1941年)8月1日に、アメリカは対日石油輸出全面禁止に踏み切っているから、日本から石油がどんどん遠くなってゆくわけである。

もっともルーズベルト大統領は、ハロルド・スターク海軍作戦部長に意見を求め、「禁輸によって、日本はマレー、オランダ領東インド、フィリピンに攻撃を仕掛けるでしょう。そうなれば、我が米国も戦争に巻き込まれることになるでしょう」との意見を受けていた。また、アメリカのビアード教授は、「ルーズベルト大統領は、対日禁輸措置は延期すべきであるとの忠告を、海軍の専門家たちから受けていた」として、禁輸措置を批判していたという。

ルーズベルト大統領は日本軍の真珠湾攻撃を予想しえたし、日本軍は引き返せない”泥沼”の戦争に引き込まれたことになる。

ところで、ミッドウエー海戦に向けては、かの山本長官も意気込んでいたらしいのだが、実態は惨憺たるものであったようである。第一航空艦隊(南雲機動部隊)が抱えていた問題はこうだ。開戦以来休みなしに太平洋を走り続けたため、ドック入りや長期の休養もなく、艦も人も疲労困憊であったのである。そこへ広範囲での人事異動も加わって艦艇と航空部隊双方とも技量の低下が著しかったようである。

なんといっても、アメリカ軍は、日本軍の作戦を暗号解読で察知し、海域一帯の封鎖をしていたのに対し、日本軍はといえば、情報管理が不徹底、米空母の位置を知らず、米艦隊はハワイからの出撃が遅れるだろうと敵情は「闇」のなか、第一航空艦隊参謀の源田実などは当時、第一段階の後始末に追われていて、ミッドウエー作戦を検討する暇もなかったらしい。

これだけの不安要素に取り巻かれているにも関わらず、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊、なべて自信に満ち溢れていたとういう。大和魂の裏返しででもあるのだろうか。

かくして、ミッドウエー海戦において日本軍は、空母4隻とその艦載の飛行機290機を失うという大敗を喫したのである。