アジア太平洋戦争の戦跡ー「フィリピン」編

 フィリピンは2度にわたって激戦の舞台となった。

 それだけに被害も大きく、東南アジアで最悪といわれる。

 分かりやすくするために、ここでフィリピンの略史に触れてみよう。

1521年(室町時代)マゼランのフィリピン到着

1571年(織田信長)スペインの統治開始

明治31年(1898年)米西(スペイン)戦争。6月12日、アギナルド将軍が独立を宣言

          12月10日、米西パリ講和条約調印。

          米の統治開始

明治32年(1899年)1月21日、フィリピン第一共和国建国、アギナルド初代大統 

          領に就任  

昭和10年(1935年)独立準備政府・コモンウエルス発足

昭和17年(1942年)日本軍政開始

昭和21年(1946年)7月4日、フィリピン共和国独立

昭和40年(1965年)マルコス大統領就任

フィリピン第一共和国=明治34年(1901年)3月23日、アギナルドが米軍に拘束されて、解体されるまでの期間存在したフィリピン政府。

 ご覧のように、フィリピンはスペイン、アメリカ、日本と三国の統治を体験しているのである。

 明治29年(1896年)以来、フィリピン人はスペインからの独立のために戦っていた。

そうした中、アメリカがフィリピンの独立運動指導者エミリオ・アギナルドに対して独立を約束して、米西戦争のさなかに背後からスペイン軍を襲わせたのである。マニラ湾海戦でスペイン軍は敗北する。独立の約束を反故にして、フィリピンを植民地にしたうえ、アギナルド率いる独立軍1万8千人の掃討を開始、明治35年(1902年)までの4年間で20万人を殺害したといわれている。 

 

  こうして明治34年(1901年)以降、フィリピンはアメリカの植民地となったのである。そして昭和9年(1934年)アメリカ議会において、10年後の独立を容認するタイディングス・マクダフィー法が成立、フィリピン・コモンウエルス(フィリピン独立準備政府)が発足する。

 一方の日本は、フィリピンをどう見ていたのだろうか?フィリピンは、オランダ領東インドなどの南方資源地帯の中間地点でありアメリカ軍がフィリピンを拠点にすれば、容易に海上封鎖されてしまう、ならば攻略としたのである。

 かくして、真珠湾攻撃直後の昭和16年(1941年)12月22日、日本軍はルソン島へ、本間雅晴中将指揮下の第14軍が12月22日、リンガエン湾へ、そして同24日、ラモン湾に上陸、10日後の翌昭和17年(1942年)1月2日、首都マニラを占領したのである。

 日本軍の攻勢の前で、バターン半島に退却した米比軍を追撃することになる。

バターン半島は長さ50キロ、幅30キロ、おおむね山岳とジャングルである。

いわゆる「第一次バターン攻略戦」は、最高指揮官ダグラス・マッカサ―の戦略を甘く見たこと、人跡未踏のジャングルと山岳というなれない戦場で、用意周到に準備をしていた米比軍の反撃に遭い、加えて半島の先のコレヒドール島には大要塞があり、その近くにもフラレイ島要塞が控えていたのである。

 かくして日本軍は惨敗。

 重爆撃機を中心にした航空隊が大急ぎでバターンに送られ、4月3日、日本軍の砲弾が開始されたのである。数十mの砂塵を舞い上がる大集中砲撃であったという。これが「第二次バターン攻略戦」である。4月9日、米比軍最大の陣地とされるマリベレス山の頂に万歳の呼号のなか、日の丸がはためいたのである。

 他方、投降した米比軍将兵は7万名、市民、婦女子とあわせてその合計は10万名と言われている。日本軍はこれら多くの捕虜の人たちの食糧が用意できず、いわゆるバターン死の行進として問題視され、第14軍司令官本間中将は、戦後、マニラの軍事法廷で責任を問われ、銃殺刑になっているのである。

 

 昭和16年(1941年)~昭和17年(1942年)のフィリピン戦で、「I S

hall  Return(わたしは必ず戻ってくる)」の名言を残して退場した、マッカーサー昭和19年(1944年)10月20日、フィリピンに戻ってくるのである。フィリピン奪回を目指す連合国軍の攻撃の前に日本軍は屈したのである。

 いったんはマッカーサーが後にした「コレヒドール島」は、明治35年(1902年)米軍がフォート・ミルズ基地を置いて戦略上の要衝としたところであり、大量のコンクリートを使用し、巨大な大砲を設置して鉄壁の海上要塞としたところである。砲撃戦で弾薬庫が大爆発し、陥落したが、多くの砲台や兵舎、トンネルが保存され、戦争記念館や慰霊碑もあり、この戦争の遺跡は現在は「観光スポット」になっているという。

(了)

 

 

 

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