戦史と世相ーシリーズ④ 「立ち上がれ小国民」昭和16年(1941年)~昭和18年(1943年)

第一次大戦後は、戦時動員力の強化を進めるため、学校教練だけではなく、特に、1926年(大正15年)の青年訓練所の設立後は、一般青年に対しても実施された。いわゆる「軍事教練」である。旧制中学校以上の教育機関終戦まで実施されたのである。射撃など武器の使い方や戦史などを教え、演習も行われ、1939年(昭和14年)には大学でも必修化され、軍国主義教育の中心となったのである。

 このような戦史のあとを辿り、昭和12年(1937年)に始まった日中戦争は長期化の泥沼のなかにある。昭和13年(1938年)からは、文部省が中等学校以上に対して集団的な勤労の作業を指令、昭和16年(1941年)には学校報国隊を組織して勤労動員が行われるようになる。

 他方、昭和14年(1939年)からは、靖国神社への戦没者遺児集団参拝が始まり、毎年一回、昭和18年(1943年)まで、北海道から沖縄、台湾、朝鮮、満州、関東州、樺太などから、総計18万人が集められたという。

 果たして何故の集合であったのだろうか。これもまた、戦意高揚への”動員”の一環であったのだろうか。この遺児たちを戦場へ奮い立たせるためであったか。

さて、本筋の国民動員に戻ると、日米開戦の昭和16年(1941年)には、小学校が国民学校に改められて、<体操科>が<体練科>へ名称が変更され、国家に対する献身奉公のための実践力を培うため、身体の鍛練、精神の錬磨を求められたのである。

 まさに戦時色への総動員である。

 はたまた他方では、将来への戦力補充に向けて、「産めよ増やせよ」である。このコピーの由来は、内閣府情報局発行の「写真週報」昭和17年(1942年)4月29日号に掲載された「これからの結婚はこのように」だという。

「結婚十訓」がそれである。

 一、一生の伴侶として信頼できる人を選びませう

 二、心身共に健康な人を選びませう

 三、お互に健康証明書を交換しませう

 四、悪い遺伝のない人を選びませう

 五、近親結婚は成るべく避けることにしませう

 六、成るべく早く結婚しませう

 七、迷信や因襲に捉われないこと

 八、父母長上の意見を尊重なさい

 九、式は質素に届はすぐに

 十、生めよ育てよ國のため

これが「結婚十訓」である。

かくして総動員体制は強化され、教育はますます国家主義的色合いをおび、子どもたちは「皇国の臣」とされ、そうして少年少女までもが「動員」されてゆくのである。

「欲しがりません、勝つまでは」と。